国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
忍者の歴史や文化を研究し、その成果を発信しています。

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(学生通信)泥縄式とはいうものの (院生三橋源一)

2019年01月21日

御存知の方もおられるかとは思いますが、戦国の世では「忍びの者」と呼ばれていた忍者、江戸期に入ってから「伊賀者」という名称に変わりました。というのもやはり強盗や盗賊・泥棒といった悪いイメージを払拭する為で、裏を返すとそのような技術も有し、活用していた証左とも言えます。餅は餅屋ともいいますが、当然そのような忍び込んで物を盗むような者を取り押さえる技術も「忍びの者」は鍛錬しておりました。ただし、万川集海では度々「このような技術は本筋の術ではない」と指摘しながらもしっかり載せている点、必須科目であったのでしょう。

さて、タイトルは「泥棒を捕まえてから縄をなう」といった意味合いですが、どのくらいでなえると思われますか。以外と速くなえるものなのです。私の住んでいる村は正月に各戸で縄をない、それを集めて大繩をなって村の結界を張るという行事を今年も行っています。例に漏れず私も向かいの納屋で縄をないましたが、これが意外と楽しい。村の話を聞きながら4時間ばかり一緒に縄をなっておりました。この際、昔話で見るような稲わらを木の槌で打つ理由や、使い方が謎であった民具の使い方などがわかったこと、何時間でも胡坐をかいて腰を据えて作業する姿勢に改めて腰回りの柔軟性が自然育まれ、それが武術の姿勢にも影響していることに気付くなど、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

稲わらは縄だけでなく防寒具、雨具、小物入れ等々への活用範囲が多く、農家には大概、稲わらがストックされております。

また、忍術書の中にも後ろ手にして両手の親指をきつく縛ればそれだけで動けなくなる、との記載もあります。

なのでタイトルのように泥縄式は順序が逆という意味合いがありながらも、こと農村に入った泥棒を縄で縛りあげる事例に関しては、それほど時間がかかるものではなかったのではないか、と思う今日この頃です。(院生三橋記)