国際忍者研究センター

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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―孫武②(院生 リトクヨウ)

2020年12月09日

 みんなさん、こんにちは、三重大学忍者研究院生一年のリトクヨウです。今回では、孫武の話を終えようと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 呉王は台上から気に入りの妃が今にも殺されそうになったのを見て慌てふためき、急いで使いの者を走らせて、孫子に命じた。
 「将軍が用兵に長けていることはもう十分に分かった。私はその二人がいなければ飯も喉を通らぬのだ。ここは見逃してやってくれ」
 「私は既に王より将軍に命じられた者です。<大将たる者は、戦陣にあっては君命といえどもお受けしてはならない場合もある>と申します」孫子はそういうと、二人の隊長の首を刎ねて見せしめとし、この二人に次ぐ妃二人を隊長とした。そのうえで、改めて太鼓を打ち鳴らして命令すると、女たちは前後左右、跪き立ち上がり、すべて取り決め通り行動し、声を出す者はいなかった。孫子は使いを走らせて、呉王に報告した。
 「部隊の訓練はすっかり終わりました、なにとぞお出ましのうえ、ごらんくださりますよう。王の意見とあれば、火の中水のなかといえども尻込みいたしませぬ」
 「将軍はもう宿舎に下がって休むがよい。わしは見におりる気はない」
 「王は兵法書の文字面をお読みになるのがお好きなだけで、これを実行に移すことはようおできにならないようでございますな」
 闔廬はこれで孫子が用兵に巧みなことを知り、彼を大将軍に起用した。呉が西方を攻めては強国楚を破って都の郢まで侵入し、北へ向かっては斉と晋の二大国を脅かし、諸侯国に大いにその名を轟かせるに至ったについては、孫子の力によるところ大なるものがあった。
 以上が第一の孫子である孫武の「伝」である。兵法家の始祖ともいえる孫子の伝にしてはいささか簡単にすぎるようだ。これについて司馬遷はさきにも触れたように、「世上、軍事について論ずる者は、皆『孫子十三篇』と呉起の『兵法』に言及し、云々」と言っている。『史記』で他に孫武の名が表れるのは「伍子胥列伝」と「呉太伯世家」とで、いずれも呉王闔廬が楚を攻めようとしたときに、その諮問に答えた短いことばが残っているだけである。孫武の「伝」といっても、「斉の人」と言われる彼がなぜ呉へ行ったのか、兵法を誰に学んだのかなど、何一つ書き残されていないのは、恐らく資料がなかったからに違いない。
以上で、今回、ここでお終わりしたいと思います。次回はもう一人の孫子と呼ばれる孫臏について書こうとしますので、よろしくお願いいたします。