国際忍者研究センター

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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―呉起③(院生 リトクヨウ)

2021年02月02日

 みなさん、こんにちは、院生一年の李徳洋です、呉起の終わりを書きます、よろしくお願いします。
「それは貴公であろう」
「わしが貴殿の上位にあるのは、このためでござる」
 かくして呉起は、はじめて、おのれが田文に劣ることを知ったのである。
 この田文が死ぬと、韓の王室の一族である公叔が宰相となった魏王の姫君の婿となっていたが、呉起を煙たく思っていた。すると、部下の者が言った。
「呉起を追い出すことなぞ、たやすいことでございます」
「どうすればよいのか」
「呉起は廉潔で節義を重んずることをもって自任しております。そこで、わが君には、国王に、〈呉起は小国のわが国にはもったいないような有能な男でございます。しかも、わが国の隣には強国秦が控えております。遅かれ早かれ、彼はあちらへまいるのではないでしょうか〉と申し上げるがよろしい。そこで、〈では、どうしたらよいか〉とのご下問がありましたなら、〈試みに姫君を降嫁させようと仰せになって、彼の気をひいてごらんになることです。彼に残る気があるならかならず承知するでしょうし、その気がなければかならず辞退するでしょう。それで彼の本心が分かります〉とお答えしておいたうえで、呉起をお館(やかた)に誘って帰られるのです。そして、あらかじめ奥方に言い含めておかれて、彼の前で殿を粗略に扱って見せつけます。彼は奥方が殿を粗略に扱われるのを見れば、[国王の姫君を嫁にすれば自分もこのようにされると思い、降嫁の件を〕かならず辞退するでしょう」
 こうして、呉起は姫君が魏の宰相である公叔を粗略に扱うのを見せつけられて、魏の武侯の申し出を断わった。
 これより武侯は呉起に疑いの念を抱くようになり、呉起は不測の事態が起こることを恐れて魏の国を立ち退き、楚へ赴いた。楚の悼(とう)王(おう)(在位、前四○一ー前三八一年)は、呉起の有能なことをかねがね聞き知っていたので、彼がやってくると、ただちに宰相に起用した。彼は〔悼王を補佐して富国強兵策を断行し〕、法律制度を明らかにし、不要不急の官を廃止し、王の一族中、縁の薄い者に対する封禄を打ち切り、その分を士卒の給与に回した。国力の増強を第一とし、外交によって安定を求めようとする者たちを論破した。その結果、楚は南は百(ひゃく)越(えつ)(長江中下流域南方に住んでいた諸部族)を平定し、北は陳·奈両国を併合し、韓·魏·趙三国を破り、西は秦に攻めこむにいたった。諸侯は強大になった楚に手を焼き、旧来からの楚の貴族たちは、ことごとく呉起を亡き者にしようと思うようになった。そして、悼王が死ぬと、王族や重臣たちが蜂起して呉起を襲った。
 呉起は逃げて王の屍(しかばね)のところへ行き、その上に身を伏せた。[もし矢を射かければ王の屍に当たることになり、それではおそれおおいので、よもや矢を射かけないだろうと思ったのだが、〕追っ手の者たちは容赦なく呉起に矢を射かけ、矢は王の屍にも当たった。悼王の葬儀がすみ、太子が即位すると、令尹(れいいん)(楚の官名。宰相のこと)に命じて、呉起を射ろうとして悼王の屍を射た者をことごとく訣毅したが、この事件に連座して一族皆殺しとなった家は七十あまりにのぼった。
 以上は「史記」に書かれた「呉起の伝」ですが、呉起は商鞅·韓非などと並んで戦国時代を代表する法家の政治家の一人である。司馬遷は彼が人心収攬(しゅうらん)の術に長けていたことを書いているが、その兵法家としての一面については、孫臏について書いたようには書いていない。司馬遷は、当時、その兵法を伝えたという『呉子』が残っており(『漢書』「芸文志」には『呉起』四十八篇とある)、その『呉子』をテキストとする兵家の一派が、『孫子』兵法派などとともに兵家のなかで有力な学派を形成していた(たとえば、『韓非子』「五轟」篇に、「いま、境内の民みな兵を言い、孫·呉の書を蔵する者は家ごとにこれあり」と見える)ので、この「孫子·呉起列伝」を立てたのだろう。この「列伝」の論賛で、とくに、「能(よ)く之(これ)を行なう者は未だ必ずしも能く言わず、能く之を言う者は未だ必ずしも能く行なわず」ということばを引いて、孫臏が龐涓を計略にかけるという異才を持ちながら、足斬りという惨刑を受けることを未然に防げなかったこと、呉起が魏の武侯に徳治の重要性を説きながら、みずからは法治主義の政治家として制度改革の大鉈を振るったために、人の恨みをかって死ななければならなかったことなどに触れて、「悲しいかな」と結んでいるのは、宮刑という屈辱に耐えて生きた彼自身の無念の思いが偲ばれる重い一言である。(院生 リトクヨウ記)