国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
忍者の歴史や文化を研究し、その成果を発信しています。

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(エッセイ)伊賀上野における武術教育 (酒井裕太)

2018年07月17日

国際忍者研究センター事務補佐員の酒井です。みなさんはお住いの地域の県史、市史、町史などは読まれたことはありますでしょうか。私が幼い頃は、なぜか自分の家にも友人の家にも応接間なんかにデカデカと置かれていて、その割には読まれているところを見たことがないなと、誰がいつ読むんだろうなどと、不思議に思ったものです。子供ながらに開いてみても難しい話でチンプンカンプンでした。そんな市史も今ではその貴重さを理解し、一家に一セット、デカデカと置かれるに足るものだと考えも変わっております。

今年、佐賀県嬉野市で行われる第二回国際忍者学会大会のテーマは~幕末の忍者~ですね。講演や研究発表のタイトルを見ただけで、興味津々です。「幕末の忍者」、その実像は大会当日に多く語られることとして、ここでは番外編と言いますか、幕末期の伊賀の武道について少し触れてみようかと思います。

『伊賀市史 通史編 2』には当時の伊賀の教育施設であった崇広堂についてくわしく書かれています。1821年に設置されたこの崇広堂では武道の稽古場も設置されており、『伊賀市史 通史編 2』には流派ごとの稽古場の配置まで書かれています。ではどのような武道が稽古されていたかというと、

 

神妙流軍馬術、新陰流剣術、若山流剣術、戸波流剣術、関口流柔術、内海流槍術、高田流槍術、山本無辺流槍術、知新流薙刀術、実光流柔術、吉田流弓術

以上が稽古場の見取り図に書かれており、槍術、薙刀術の稽古場が細長いのも納得です。

また、見取り図にはありませんが、幕末に作成された「津藩分限役付帳(名張市所蔵)」には山鹿流、風山流の兵学、森内流馬術、楠流柔術、伊勢流礼法、義経流軍螺・太鼓、そして別区画では和式砲術の米村流、不易流、自得流、奥村流が、西洋砲術の靖海流が稽古されていたようです。ちなみに内海流といえば、伊賀の芭蕉門人、服部土芳も習得していた槍術です。「約付帳」には助教人(先生)の人数も書かれており、やはり注目すべきは流派ごとの人数でしょうか。最も少ないのが風山流兵学と楠流柔術の助教人で2人、剣術で最も多い新陰流の助教人数でも5人なのに対し、西洋流砲術の靖海流の助教人の数は14人。和式砲術四流派を合わせてやっと同じく14人という数になります。このあたりは言わずもがな「時代を感じさせる」資料ですね。

『万川集海』にある「伊賀と甲賀には(中略)各自が小城を構えて自分の小領地を守っていた。領地の奪い合いも頻発し、小競り合いが続いた」そんな地から伊賀者の名を国中に広め、忍術で名を上げた伊賀の里の事情は遥か昔となり、小競り合いどころではない大きな戦いへの備えを始めていた事が伺えます。なんとも忍者や忍術への浪漫のないお話になってしまいましたが、しかしながら、多くの剣術、柔術には「外の物」と言われる、本流から離れた術も伝えられていました。その中には忍び入りや、隠し武器、狼煙や薬方など、忍術といえるものも含まれていました。もしも崇広堂での稽古に「外の物」が現れ、伊賀の武道修練者が「これ、家に大事に置かれてある本の事じゃないか?」なんて忍術の逆輸入を感じていたら面白いなあ、なんて思いますが、それはあくまで私の頭の中の、空想の世界のお話でございます。(酒井記)