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(学生通信)音もなく臭いもなく…姿も見せず(院生三橋源一)
2018年11月13日
大学院ゼミではいよいよ『万川集海』の読み下しに入ります。前回の味覚に関する話に関連して今回は…。タイトルは上記書物の引用ですが、これを実行しようと考えると『むむ、これは難しそうだぞ…』と感じます。しかし答えは簡単。正解の一つは「近くにいなければよい」ということです。まあ、最終的には近くまで寄る(「敵ニ近ツクヲ以テ肝要トス」)のですが、まずは遠くから相手の情報が分かれば良いのです。
ある日の村での会話の一部を抜粋すると…
A『おう、あいつボチボチ作業始めよったの。結構奥の方まで行ってはかどっとるの。』
B『おや、今日はなんであの子、こっちで作業しとるんや。』
A『それな、もうすぐ盆やけ墓までの道の草刈っとるんや。』
B『ああ、そうやな、ちょっと機械替えよったかもしれんの。馬力がええで。』
…こんな感じですが、実はAさん、Bさん、私と同じブルーベリーの木の収穫をしていて、ブルーベリーしか見ていない状態での会話です。つまり聴力、村の位置と各人の草刈り機の音の違い、状態までだいたい把握しているので、聞こえた瞬間に状況がわかるのです。
同じような事をアフリカでマサイ族といる時に経験しました。『あと1時間くらいで東からパジェロが来るよ。』というのですが、まさにその通りでした。キリンの死骸を発見した時も、急に『ハイエナが来るから南へ移動しよう。』と言い、行動しましたがおそらくそうだったのでしょう。運転手のカンバ族が一言『あんたは日本の武術をして強いかもしれんが、ブッシュに入れば、音もなく臭いもなく、やつらの姿も見ないうちに槍に貫かれてそれで終いよ。』と奇しくも万川集海と同じ事を言われましたが、素直にそうだと思いました。こんな経験があってから“我々こそが世界最強云々…”などの言葉に興味を持たなくなりました。
無機質な同一条件下での比較はある意味科学的・合理的ですが、ある科学者が言った『合理的な手法は成程、便利なやり方ではありますが、“深い”理解の仕方ではありません。』という言葉が不思議に心に残っています。
平面的な世界共通性はないけれど、時間軸での普遍性をもつ生活の在り方、これを伊賀の村と忍術を通じて“深く”理解していきたい。そう感じる今日この頃です。(三橋記)