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(エッセイ)走る? 家康(三重大学准教授吉丸雄哉)
2018年06月04日
皆さん、こんにちは、三重大学人文学部で日本近世文学を教えている吉丸雄哉です。
今日はいわゆる神君伊賀越の話をしましょう。本能寺の変のあと、堺から上洛中の徳川家康が信長殺害の凶事を知り、山城宇治田原、近江信楽小川、柘植、加太峠を通って白子(あるいは四日市などとも)から船で岡崎へ帰着した事件です。6月2日に堺を出発して5日未明に三河国まで到着しています。
信楽小川から柘植までのルートが諸説あって、議論されています。結局はどの史料を信頼するかの問題でして、新説が出るたびにだんだん北(甲賀)よりになる印象です。この詳細を議論するのは私の仕事ではないと思っています。
ところで、最近、徳川家康の伊賀越では家康は歩いたのですが、それとも駕籠や馬を使ったのですかと複数人に聞かれました。どうやら大河ドラマ『真田丸』(2017)の伊賀越で家康が走っていたのが視聴者に大きな印象を残したようです。
史料を見ると(愛知県史史料編11を閲覧)、馬とするのが『譜牒余録』巻50「永井万之丞」、『寛政重修諸家譜』巻59「酒井重忠」、『本多家武功聞書』。凶事を知るまでが駕籠でそれから馬になったのは『寛政重修諸家譜』巻681「本多忠勝」でした。
信楽多羅尾の十王地蔵の伝説では駕籠に乗せた地蔵を影武者にして御斎峠を通したという伝説が地元に残っていますがあくまでこれは伝承とみるべきでしょう。
以上から馬でいいかと思うのですが、『本多家武功聞書』は草地川を柴舟で渡っており、『寛永諸家系図伝』「酒井忠次」では途中の川を小舟で家康は渡り、忠次は馬で川を渡ったとあります。
舟で渡河したのが事実なら、伊賀越開始の時点の馬に家康がずっと乗っていたかわかりませんが、路銀の十分だった家康一行(十六・十七世紀イエズス会日本報告集)が一度馬を手放しても、その後家康を乗せるための馬を調達できなかったとも考えにくいです。
そういうわけで、『真田丸』での走る家康は演出だと推測しますが、「御生涯御艱難の第一」(徳川実紀)の印象を強く与えるのに成功したと思います。(吉丸記)