国際忍者研究センター

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(エッセイ)旗本史料にみる手裏剣

2018年06月29日

三重大学国際忍者研究センター准教授の高尾善希です。きょうは手裏剣についての駄文を記してみたいと思います。

現代の一般的なイメージでは、「忍者」といえば「手裏剣」を連想します。つまり、「忍者がもっぱらに手裏剣を武器とした」ということですが、それは、フィクションのようです(山田雄司『忍者の歴史』角川書店)。しかも、十字手裏剣などの放射状の手裏剣は、近世の忍術書には出てくるものの、実用性には欠けるのでは、というのが軍事史家の意見です。

ただし、手裏剣は武士の一般的な武器として実在しています。それも、十字手裏剣のようなものではなく、棒状の、いわゆる棒手裏剣であったようです(いまもその流派は存在しています)。忍者も武士の一部であると考えるならば、忍者が手裏剣を使わなかったとは完全には言い切れませんけれども、まあ、少なくとも「『忍者』といえば『手裏剣』」という関係性はフィクションでしょう。

では、実在した手裏剣は、どのように使われていたのでしょう。実態に近づくため、あえて、武術書以外の史料で検討しましょう。

徳川幕府の旗本で橋本敬簡(ゆきやす)という人物がいます。家禄150俵の旗本で、「経済随筆」という随筆を書いています。古くから活字で見ることができて、小野武夫『近世地方経済史料』(吉川弘文館《復刊版》、1987)第1巻「経済随筆」として紹介されています(元の版は昭和7年[1932]刊行)。橋本は家禄150俵から出発しますが、職禄1000俵まで出世します。ただ、「経済随筆」では、自らの経験を活かしてか、小身の武士がどのように身を処すかという観点から、いろいろ書いています。

たとえば、「盗賊の備の事」という文章があります。小身の武士は下僕を雇うことができないが、その中で盗賊への備えはどうするのか、という内容です。そこに、今回の話題の手裏剣が出てきますから、ちょっと見てみることにしましょう。

「常に座右に手裏剣めつぶし様のもの用意すべし、目つぶしは種々法あり、軽きのは玉子へ穴を明け松脂の粉をつめ眉間へ打なり、又夫より手早きは灰を半紙杉原様なものに玉子程に包み結び置打付れば、紙破れ灰目顔にかゝりよき目つぶし也」(小野武夫『近世地方経済史料』(吉川弘文館《復刊版》、1987)第1巻「経済随筆」 ※旧字体を新字体に直した)

小身の武士は充分に下僕を雇うことができず、盗賊への締まりが疎かになってしまう。そこで、手裏剣と目つぶしを置いておくのがよい。目つぶしはいろいろやり方がある。手軽なものは、玉子に穴を空けて、そこに松脂の粉を詰めたもの。それを相手の眉間へ打つ。また、それよりも手早いものは、「半紙杉原様なもの」(杉原紙[すいはらがみ]は紙の一種。それを半紙[いまのB4サイズほど]に切り取る)の中に灰を入れて、玉子程度の大きさに包んで結んだもの。これを打ち付ければ、紙が破れて灰が目や顔にかかって、よい目つぶしになる。……そのようなことが書かれています。

手裏剣や目つぶしは、ここでは小身の武士に勧める護身具として登場しています。しかも、手裏剣は「常に座右に」とあり、咄嗟の時に打つもののようです。目つぶしも同様でしょう。手裏剣や目つぶしで、完全に相手を制することができるとは考えにくく、おそらく矢庭に襲撃してきた相手を怯ませておき、その隙に、自分の態勢を整えよう、ということなのでしょう。繰り返しますが、手裏剣は一般的な武士の武器であったのです。橋本自身が小身の旗本でしたから、実際に自分がこれらを備えていた可能性があります。

それから、手裏剣と一緒に書かれている目つぶしの2つも、興味深いものです。玉子の中に何かを入れて目つぶしにするということは、いまでも忍術の道場で行われているそうです。ここで書かれているものは、徳川時代の史料に書かれている目つぶしです。実験して、効果を試したいものです。(高尾記)