国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
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(エッセイ)ミゲル・シカール『プレイ・マターズ』の紹介するニンジャという遊び(吉丸雄哉)

2019年06月03日

 一昨年度から忍者に関するゲームに興味をもち、アナログ、デジタルをこえて収集、体験をはかり、また関係する書籍を読んでいる。最近読んだミゲル・シカール著・松永伸司訳『プレイ・マターズ ;遊び心の哲学』(フィルムアート社、2019)は遊びや遊び心を根本から考えていく本である。30頁から32頁に面白い忍者遊び(ゲーム)が載っていたのでかいつまんで紹介する。
 ずばりニンジャという名前の身体をつかったゲームで、駐車場や学校や寮の共有スペースで遊ばれる。ルールは単純で、参加者がお互いに手の届かない程の距離をとり、それからいちにのさんで腰を落として足と手を大きく広げたニンジャのポーズをとる。海外で忍者のポーズをとってくれというと、印を結ぶ日本と違って、そのポーズをとるらしい。ゲームの目的は誰かほかのプレイヤーの手のひらをたたくことで、それ以外を叩くことは禁じられている。ターン制で交互に一回ずつ叩く動作ができる。手のひらを叩かれたプレイヤーは負けとなり、最後のひとりになるまで続く。
「コペンハーゲンIT大学を乗っ取るニンジャ」という遊んでいるところを俯瞰する写真が載っているが(31頁)、人は小さくしか写っていないので、それだけではよくわからない。Youtubeで検索したところ、どうやら”ninjaslap”がそれに相当するようで、欧米系の若者が実演する動画が少々あった。日本では二人が向かい合って手のひらを向けあい、お互いに手のひらをついて相手を動かす遊びがあって、それに似た印象である。投稿の数は少ないが、こうやって紹介されているので大学では流行っているのかもしれない。
 さて、これに関する『プレイ・マターズ』の考察であるが、

 プレイヤーは、ニンジャというゲームを通して、場所を乗っ取り、人の輪を作ってはすぐに崩し、その空間を荒らし、それによってその空間を実質的に制圧する。一方で、ニンジャは、社会文化資本的な意味においてもその空間を流用する。つまり、さっきまで駐車場だったところが戦場に変わり、快を生み出す土地として開拓されるのだ。また、このゲームは、学校や職場といった〔まじめな〕公共の場でプレイされる場合には、毎日の長い業務を切り抜けるのに役立つ笑いの価値を引き出すことができる。ニンジャは、まさにその乱雑に広がっていくという性格を通じて、それがプレイされる空間を流用しているのである。(31頁・32頁)

 多くの民間(フォーク)ゲームもまた、関係性の美学を体現するものとして理解できる。たとえば、1章で取り上げたニンジャというゲームが美しいものになるは、それが公共の場で遊ばれ、その空間を遊び心あるかたちで流用することによって、その遊びに参加していない人々の日常生活を攪乱し、日常とは別の環境を新たに作り出すからである。(108頁)

 ニンジャというゲームの紹介は、「遊びは流用的である(approprivative)」であることの一例で、本来は車を駐めるための駐車場や学びの場である教室が遊びの場になることを示すものだった。写真「コペンハーゲンIT大学を乗っ取るニンジャ」では17人ほどが写っているのでそれなりに人がいないと遊べないのだろうが、このニンジャがどういうタイミングでどういう人たちがなぜそのゲームを遊ぶのか十分に説明されていないので、それがまだ知りたい。解説を読むと、ゲームながら寺山修司の「市街劇」ぽいのが魅力に感じるのであるが。(吉丸記)