国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
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(学生通信)中国商人の第一人者の暗殺事件(院生 鄒開宇)

2019年08月05日

 皆さん、こんにちは。この暑い夏の日には日焼けや熱中症にならないように注意してくださいね。
 忍者といえば、日本のみある職業だと思われますが、中国にも忍者と似た古い職業があります。それは「刺(し)客(きゃく)」です。両者とも自分の本当の身分を隠して、密かに任務を成し遂げられるように務めますが、忍者の仕事の内容は主に情報収集で、刺客の仕事の内容は暗殺に偏ります。これから皆さんに刺客の話しをシェアしたいと思います。
 この話しは『竹書紀年』に記録されています。しかも、これも中国の歴史に記録されている一番早い暗殺事件です。
 紀元前1800余年の夏朝中期に、夏の支配下の商という部族がありました。七代目の時に立派な首領の王(おう)亥(い)と呼ばれる男が現れました。彼は賢くて謀略が上手く、民衆を指導して牛を飼いはじめて、そして牛車も発明しました。その後、牛車を運転して黄河の北岸に沿って各諸侯国へ行って牛と羊を商売しました。そのため部落の農業と牧畜業を高速に発展させると同時に商業も発展させ、農産物の過剰な問題を著しく緩和しました。中国の商業史において、王亥は商業貿易に従事し、そして殺害されたという中国古代文献の商業と貿易行為に関する一番早い記録を残しています。ですから、王亥は中国の商人の第一人者で、中国の商業の元祖で、後世に「華商の始祖」と尊ばれています。
 王亥の最後の商売は黄河以北の有易氏とのものです。『竹書紀年』によると、紀元前1810年、王亥は彼の弟の王恒と一緒に商(しょう)丘(きゅう)から自分の部落の余分な牛や羊を追いかけて、有(ゆう)易(えき)国(こく)という小国に取引しに行きます。有易国の王の綿(みん)臣(しん)はこの貿易の要求を受けて喜んで豊富な料理を準備して、王亥兄弟と彼らの貿易団を迎えるつもりでした。
 しかし、宴会の途中で、綿臣の妻が有能な王亥を気に入ったので、綿臣はこのことが不機嫌になりました。加えて、王亥らの持ってきた貨物は確かに多いから、王亥を殺したら、自分の心中の恨みを晴らすだけではなく、貨物を全部自分のものにすることもできます。こうして綿臣は暗殺計画を開始しました。
 ある深夜、王亥が酔って住まいに帰って寝ました。綿臣に雇われた刺客がそのうちに斧を持って王亥の部屋に入り、王亥を殴り殺して残酷にバラバラにしました。綿臣は王亥の死を知ってから自分の偽装を引き裂いて、王亥が持ってきた牛や羊や牧人までも全部自分のものにするように命じ、そして王亥の弟王恒を有易国から追放しました。
 王亥の弟王恒は昼夜兼行して商丘に逃げ帰りました。王亥の子の甲微(こうび)はこのことを知ってから非常に悲しくて憤慨して、王亥の仇を討つつもりでした。しかし諸事情のため、その時直ちに出兵することができませんでした。4年後、つまり紀元前1806年、他の部族の力を借りて有易氏を滅ぼし、綿臣を殺し、父王亥の仇を討ちました。
 商部落は後に商湯の時期に夏朝を取り換えて商朝(殷朝)を創立して、商人が商売することが上手なため、他の部落の人は商売をする人を商人と通称して、それから商人という言葉は商売人の代名詞としてずっと踏襲してきました。(院生 鄒記)