国際忍者研究センター

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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―司馬穣苴(しばじょうしょ)②(院生 リトクヨウ)

2020年11月11日

 みんなさん、こんにちは、三重大学忍者研究院生一年のリトクヨウです。前回の続きをしたいと思います、どうぞよろしくお願いいたします。
「約束の刻限に遅れた場合、軍律ではどうなっておるか」
「斬首でございます」
 荘賈は慌てて景公のもとへ使者を走らせ、助命を請うた。その使者が戻らぬうち、穣苴は荘賈の首を刎ねて全軍に回覧させた。士卒はその軍律の厳しさに震え慄いた。しばらくして、景公の使者が、荘賈の罪を許すとの御沙汰を持って軍勢の中に馬車を飛ばせて走りこんできた。穣苴は、
「大将たるものは、戦陣にあたっては君命といえどもお受けしてはならない場合もある」といって、軍法官に訪ねた。
「陣中で馬車を走らせてはならぬはず。しかるに今、使者は馬車を走らせた。軍律ではどうなっておるか」
「斬首でございます」
 使者は真っ青になったが、穣苴は、
「殿のご使者を殺すわけにはいかぬ」と言って、その馬車の御者と左側のそえ木、三頭立ての馬の左側の一頭を斬り、全軍に見せしめとした。かくて、使者の報告に帰らせおいて、出発した。
 これより、行軍中の宿舎、飲み水、食べ物のことから、病人の医薬のことまで、すべて自ら監督し、将軍として自分に支給された給与をすべてに士卒に回し、士卒と同じものを食べたばかりでなく、それとも士卒の中でもっとも足弱な者に与えられる分しか食べなかった。こうして三日もすると、病兵たちも争って前線に出したいと申し出るほどになった。斉の軍勢の士気がこのように高まったことを聞いて、黄河北岸へ引き揚げた。穣苴は、これを追撃して、占拠されていた領土をすべて奪回したうえで、軍勢を率いて帰還した。そして、都城の手前で軍の編成を解き、軍律を解除し、解散の式典を行ったのち、都に入った。景公は大夫たちを引き連れて城外まで出迎え、士卒をねぎらい、軍勢の帰還を祝う儀式を行ったのち、初めて、後宮にもどったのだった。これより穣苴は、大司馬に取り立てられ、斉における田氏の地位がますます高くなった。
 後の話ですが、少々残念ですが、続きます。
 大夫の鮑氏や高氏・国氏などがこれを妬み、景公に讒言した。景公はそこで穣苴を解任し、穣苴は病気になって死んだ。
 田乞・田豹らはこのため高氏や国氏を目の敵にするようになり、その後、田常が簡公を殺すに及び、高氏・国氏の一族を皆殺しとした。田常の曾孫田和のとき、ついに自立して斉王となった。これが威王である。威王は軍事行動をとるにあたって大いに司馬の法を参考にしたので、諸候は斉の勢力に入った。威王は大夫たちに命じて古来伝わった司馬の兵法を整理させ、穣苴の兵法を新たに加えさせて、「司馬穣苴の兵法」と呼んだ。
 今回、ここでお終わりしたいと思います、次回は司馬穣苴についてのまとめをしたいのですが、どうぞよろしくお願いいたします。(院生 リトクヨウ記)