国際忍者研究センター

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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―司馬穣苴(しばじょうしょ)③(院生 リトクヨウ)

2020年11月18日

 みんなさん、こんにちは、三重大学忍者研究院生一年のリトクヨウです。今回司馬穣苴について、最後になると思います。まとめに行きましょう。
「史記」に書いてある「司馬穣苴列伝」だが、①、②で全部である。②に出ている「司馬穣苴の兵法」だが、「漢書」の『芸文志』では、『軍礼司馬法』百五十五篇として、「礼十三家」の中に収められている。「隋書」の『芸文志』には、兵家の部分に「『司馬兵法』三巻・斉将司馬穣苴撰」なるものがあるが、これが漢代の『軍礼司馬法』とどういう関係にあるのか、今となっては知るよしもない。我々はただこの司馬遷の「伝」によって、田穣苴という人物が、公私の別を明らかにする一方、士卒に思いやりを示して彼らの心を掴んだ名将であったことを知るだけである。彼が大司馬に取り立てられたものの、有力な大夫たちの讒言にあって失脚し、そのために病気になって死んだというのは、「伝」から見ると、文字どおりに病気で死んだとみるより、憤死したようにもとれるし、また毒殺されたとみられないこともない。ともかく、司馬遷としては、当時見ることができた僅かな資料でようやくこれだけまとめたものであろう。
 司馬穣苴が残っている疑問は、時間とともに今まで、既に解釈しかねる。現在「武経七書」の中にある「司馬法」の作者は穣苴であるかどうかもはっきり言えない。だが、その軍事思想の影響は確かである。
今回、ここでお終わりしたいと思います、次回は孫子について、書こうと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。(院生 リトクヨウ記)