国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―孫武①(院生 リトクヨウ)

2020年12月02日

 みんなさん、こんにちは、三重大学忍者研究院生一年のリトクヨウです。今回引き続き、中国春秋・戦国時代の兵家たちについて、書こうと思いますが、司馬穣苴が終わり、「孫子」の作者である孫武を始めます、どうぞよろしくお願いいたします。
 これも「史記」に書いてある孫子の話です。
 孫子、名は武、斉の国の人である。兵法書を呉王闔廬に奉って目通りを許された。その時、闔廬が言った。
「わしはそなたの『兵法』十三篇を全て読んだ。試みに部隊を調練して見せてもらえるかな」
「よろしゅうございます」
「女でやってみることができるか」
「できます」
 ではやってみよ、ということで、後宮の美女百八十名を召し出した。孫子は彼女たちを二つの隊に分け、呉王の寵愛していた妃二人をそれぞれの隊長とした。さらに、一同に戟を持たせてから、言った。
「そなたたちは自分の胸と背、左と右の手を知っておるか」
「はい」
「では、前と命じられたら胸の方向を見、左と命じられたら左手の方向を見、右と命じられたら右手の方向を見、後ろと命じられたら背中の方向を見よ。」
「はい」
 そこで、合図の太鼓の打ち方と、それに対する動作を取り決め、必ず命令を守るよう伝えてから、彼女たちの前に斬首用の斧を持った刑手を整列させ、その斧を指さしながら、命令に従わぬ時は首を斬ると宣言し、重ねてよくよく念を押した上で、太鼓を打って右と命じた。ところが、女たちはげらげら笑いだした。孫子は、
「取り決めが不明確で、軍律が不徹底なのは、大将たる者の責任である」
 といって、改めて繰り返し説明し、太鼓を打って左と命じた。女たちはまたも、どっと笑った。すると孫子は、
「取り決めが不明確で、軍律が不徹底なのは、大将の責任だが、すでに再三説明したにもかかわらず、依然軍律が守れないのは、隊長の責任である」と言って、二人の隊長の首を刎ねるように刑手に命じた。
 今回、ここでお終わりしたいと思います。次回で孫子の話を終えましょう。(院生 リトクヨウ記)