国際忍者研究センター

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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―孫臏②(院生 リトクヨウ)

2020年12月23日

 みんなさん、こんにちは、三重大学忍者研究院生一年のリトクヨウです。孫臏について、書きつづきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 孫臏は軍師になり、其の後、魏の軍勢が趙に攻め入り、危急に瀕した趙が斉に救援を求めてきたことがあった。斉の威王は孫臏を大将にしようとしたが、孫臏は、
「わたくしは刑余者です。軍勢を率いて戦うことはできません」と辞退した。そこで、田忌を大将とし、孫臏は軍師として、馬車の中から作戦を指揮することとなった。田忌が軍勢を率いて趙へ向かおうとすると、孫子が言った。
「およそ、もつれた紐を解くときには、落ち着いて指で解くべきであって、焦って力いっぱい引っ張ったり、拳でたたいてみたりところで埒があくものではありません。また、喧嘩の仲裁をするものは口でするべきであって、自分まで殴り合いに加わったのでは仲裁もできません。一国の囲みを解こうと思ったら、まず敵の大軍のいる所をさけて、手薄な所を衝き、敵を牽制するようにすれば、囲みが自ずと解けるものです。さて、いま、魏は趙を攻めておりますからその精鋭はあげて国外におり、本国の守備はすべて老弱の兵士にゆだねられているに違いありません。然らば、将軍は大梁へ向けて急行し、町道を要衝を占拠してその弱味を衝くべきです。さすれば、魏の軍勢は趙を捨てて、自分の国の防衛に駆けつけるでしょう。これこそ趙の囲みを解かせ、同時に魏の軍勢の力を削ぐ、一挙両得の手というものです。
田忌がこの策に従った所、はたして、魏の軍勢は邯鄲(趙の都。河北省)の囲みを解いて引き揚げてきた。斉の軍勢はこれを桂陵(河南省長垣西北)で待ち受け、さんざんに打ち破った(いわゆる「桂陵の戦い」前三五三年)

 はい、以上で、今回ここでお終わりしたいと思います。今度も引き続き、孫臏について書きます。(院生 リトクヨウ記)