国際忍者研究センター

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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―孫臏③(院生 リトクヨウ)

2021年01月13日

 みんなさん、あけましておめでとうございます、三重大学忍者研究院生一年のリトクヨウです。もう日本に来て二回目でお新年を迎えました、一年正はもうすぐ終わりますが、新学期も引き続き頑張って参ります、どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、今回も孫臏について、書きつづきます。
 それから十三年して、魏は趙とともに韓を攻め、韓は斉に救援を求めてきた。斉は田忌を援軍に出して一路大梁を衝かせた。魏の軍勢を率いていた龐涓はこの知らせを聞くと、急遽陣払いして引き揚げてきた。この時、斉の軍勢は既に斉の国境を出、龐涓の軍勢の前を西進していたが、孫臏は田忌に言った。
「あの三晋(春秋時代の大国晋が分裂してできた韓・魏・趙の三国をいう)の軍勢はかねがね勇猛果敢をもって鳴り、斉を臆病者と馬鹿にしております。名将と言われる者は、相手の態勢を巧みに利用して、味方を有利に導くものです。兵法にも<勝ちを焦って百里もの遠道を急行する者は、〔手勢の大部分があとに取り残されてしまうため〕先手の大将が打ち死にする羽目になり、同じく五十里の道を急行する者はその軍勢の半ばを落伍させることになる>と申します。そこで、わが軍は今日国境を越えて魏の領内にはいったわけですが、今夜は宿営地に十万人分の竃を作り、明日はそれを五万人分に減らし、明後日は三万人分に減らしましょう」
龐涓は斉の軍勢を腰抜けとは知っていたが、この三日間、斉の軍勢が宿営したあとを見てきて、「斉の軍勢が腰抜けとは言っていたが、我が国にはいって、たった三日間で脱走兵が半分以上も出おったか」と呵々大笑すると、徒歩の大軍を後に残し、えり抜きの部隊だけを率いて、昼夜兼行、急追に移った。
 一方、龐涓の手勢が追いついてくる日時を計算していた孫臏は、彼らがその日の暮れ方に馬陵にさしかかると見た。馬陵の街道は左右を険しい山に挟まれた、伏勢するに格好の場所である。彼はそこで、一本の大木の皮を剥ぎ取り、白い幹に「龐涓、この木のもとに死せん」と書きつけると、弓の名手を選び出し、一万の弩を待たせて左右の木立のなかに潜ませた。
「よいか、日が暮れて、松明の火があがったら、その火を目がけていっせいに射掛けるのだぞ」
 その夜、はたして龐涓がその木の下に姿を現した。白い幹に何か書かれているのに気が付き、部下に命じて松明に火をつけさせた。が、最後まで読まぬうち、斉の軍勢の一万の弩が一斉に発射され、魏の軍勢は大混乱に陥った。龐涓はもはやこれまでと、「とうとうあの青二才に名を成せてしまったか」と一声叫ぶと、自らの首に白刃をあてて自決した。斉の軍勢は余勢を駆って魏の軍勢を全滅させ、魏の太子で上将軍の申を捕虜にしてひきあげた。孫臏はこの一戦で天下に名をとどろかせ、その兵法ものちの世まで伝えられることになったのである。
 第二の孫子、孫臏の伝は以上の通りで、『史記』ではほかに『魏世家』と『田敬仲完世家』に、それぞれ桂陵・馬陵の戦役のことが書かれている。『戦国策』の「斉」威王の項、「魏」恵王の項にも見えるが、「魏」の恵王の項では、魏は「馬陵の戦い」で大敗し、太子申を殺され、軍勢十万を失ったと書かれている。ただし、孫臏の復讐譚には触れられていない。当時、すでにこのような説話が伝えられていたのであろうか。それにしても、孫武とともに、その最後がどうであったか分からないのは、いささか物足りない。それが、名君や名将と言われる人物の陰にあって献策するのをつねとした兵家の運命というものであろうか。
はい、以上で、孫臏について、終わりになります。今度は、同じ時代の人物であった呉起について、書こうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。(院生 リトクヨウ記)