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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―呉起①(院生 リトクヨウ)
2021年01月23日
みんなさん、こんにちは、院生一年の李徳洋です、今回から、呉起について、書き始めます、よろしくお願いします。
呉起は衛の人である。兵法を好んだ。曽子(孔子の弟子の曽参)の門に学び、魯の君主に仕えたことがあった。斉が魯を攻めたとき、魯の国君は呉起を大将に起用しようとしたが、呉起が斉の国の女を妻としていたので、斉の利益を図るのではないかと疑い、起用をためらった。すると呉起が、功名を求めようとして、その妻を殺し、斉に未練のないことを明らかにしたので、ついに、彼を大将とし、斉を攻めさせて大勝した。
魯の国に呉起を快からず思う者がいて、魯の国君に告げロした。
「呉起は恐ろしい男です。若いころ、家には莫大な財産がありましたが、出仕しょうとして果たさぬうち、その財産を使い果たしてしまったので、郷里の者たちの笑い者になりました。すると、呉起は自分を笑い者にした三十数名の者を殺し、衛を出て東方へ向かいましたが、その際母親に別れを告げ、おのれのひじを噛み破って、<わたくしは大臣宰相にならなければ、二度と衛にはもどりませぬ>と誓ったものでした。そして、曾子の門にはいりましたが、しばらくしてその母親が死んだのに、彼はついに帰ろうとはしませんでした。そして、そのため曾子にうとまれて破門されました。呉起はそこで、魯に来て兵法を学び、殿に仕えたのですが、殿に疑われたため、自分の妻を殺してまでして大将になろうとしたのです。そもそも、わが魯の国が小国であるにもかかわらず斉に大勝したとあっては、諸侯の目の敵にされかねません。しかも、わが魯は衛とは兄弟の関係にある国であるのに、呉起をお用いになるのは、進んでその仲を絶つようなものではありませんか」
魯の国君はこれを聞いて呉起に疑念を抱き、罷免した。
呉起はそこで、明君との聞こえの高かった魏の文侯(在位、前四四五―前三九六年)に仕えようと思った。文侯は〔重臣の〕李克に、
「呉起というのはどのような人物か」とたずねたところ、
「呉起は貪欲で好色ですが、軍勢を指揮させたら、司馬穣苴もとうていかないますまい」とのことだったので、彼を将軍に任じて秦を討たせ、その五城を抜いた。将軍となった呉起は、着る物も食う物も士卒のもっとも身分の低い者と同じにした。寝るときにも敷物を敷かず、行軍するときにも馬に乗らず、兵糧もみずから担って、士卒と労苦をともにした。また、ある兵卒にできものができたときには膿を吸い出してやった。それを聞いたその兵卒の母親がないたので、ある人が、
「あんたの息子は一介の兵卒なのに、将軍が自ら膿を吸い出してくださったのだ。泣くことはないじゃないか」というと、その母親が言った。
「そうではないのです、将軍は昔、あの子の父親の海を吸い出してくださり、感激した父親は戦場で一歩もあとに退かず、戦死したのです。ところが、将軍は今度また、息子の海を吸い出してくださいました。そこで、あの子がいったいどこで死ぬことになるやらと思い、泣いていたのです」。
はい、今回、ここでお終わりしたいのです。また今度書きます。よろしくお願いします。(院生 リトクヨウ記)