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(エッセイ)玉田玉秀斎代々について(吉丸雄哉)
2021年05月17日
立川文庫で知られる二代目の玉田玉秀斎が実際には三代目であることは、旭堂南陽が玉田玉秀斎を襲名したときに判明したことである。
『産経新聞』(2016年5月17日版)「上方若手講談師、ダブル襲名へ 小南陵と玉秀斎“復活”」に
(四代目旭堂)南陵さんによると、これまで小南陵の先代は「三代目」、玉秀斎は「二代目」とされてきたが、
文献や関係者の証言などから継承者1人ずつの存在が新たに判明。今回の襲名を機に改めるという。
とあるが、どうしてまぼろしの二代目が見つかって、新玉田玉秀斎が四代目になるのか、はっきりと説明した文章が見当たらない。
そのため、四代目玉田玉秀斎先生に直接メールを送って、おうかがいしたところ、貴重な情報をいろいろとお教えいただいた。私はすっきりと腑に落ちたのだが、自分だけが納得するのはもったいないと、玉秀斎先生に教えていただいた情報を公開してよいかとうかがったところ、ご快諾いただいたので、ここに考察を記す。わかりやすさを重視するため、以下関係者全員の敬称を略すことお許しいただきたい。
まず、立川文庫で知られる二代目と言われてきた玉田玉秀斎の襲名に関しては、親族である池田蘭子『女紋』(昭和35年(1960))が参考にされてきた。玉秀斎の妻山田敬の娘の寧、その寧の娘が池田蘭子(1853~1976)であり、一族の立川文庫の共同執筆に参加していた。
『女紋』によれば、初代玉田玉秀斎の弟子である玉田玉麟が明治31年夏あたりに二代目を襲名したように書いている(61~65頁)。「あたりに」と書いたのは、なんともぼんやりした書き方で、明治31年夏に襲名したように読めるものの、そうでなくも読めるからである。
初代玉田玉秀斎であるが、旭堂南陽が師の四代目旭堂南陵と一緒にご子孫のM家(念のため吉丸がアルファベットにした)に襲名の挨拶にうかがったさいに、見せてもらった家系図には、
初代・玉秀斎 明治26年5月13日 逝去
と書いてあったという。
国立国会図書館が所蔵している「玉田玉秀斎」名義の速記本は、
『三賢明智伝』玉田玉秀斎 口演, 丸山平次郎 速記. 駸々堂, 明23.10
『寛政曽我』玉田玉秀斎 口演, 丸山平次郎 速記. 駸々堂, 明25.9
の2点で、このあとは
『横綱力士 小野川喜三郎』玉田玉秀斎 講演, 山田都一郎 速記. 岡本偉業館, 明35.5
に飛ぶ。初代玉田玉秀斎で明治26年5月13日に亡くなったので、『寛政曽我』までが初代の口演、『横綱力士 小野川喜三郎』は別人の口演とみるのが適当だろう。
旭堂南陵『続々・明治期大阪の演芸速記本基礎研究』(2011)において、
玉田派のこの三人の消息を追っていくと、玉枝斎は『大阪名所独案内』(明治二五年十一月)に
玉枝斎、玉秀斎、一山、一瓢、玉芳斎の順で載っている。
しかし、「浪花名所三幅対見立鏡」(明治二七年六月)においては、玉枝斎、玉秀斎の名が消える。(308頁)
とあるのにもぴったりあう。
今まで二代目と言われてきた玉田玉秀斎だが、本名は加藤万次郎。『女紋』の記述を信じるなら、20才で初代玉田玉秀斎に弟子入りし、明治6年23才で玉麟を名乗るようになった(22頁)。玉田玉麟名義の速記本を国立国会図書館蔵書に探すと、
『侠客小桜千太郎』玉田玉麟 講演, 山田都一郎 速記. 名倉昭文館, 明35.4
『三光誉の侠客 松王峰五郎』玉田玉麟 講演, 山田都一郎 速記. 名倉昭文館, 明35.4
である。
先の『横綱力士 小野川喜三郎』の表紙には「玉麟改メ」と記してある。旭堂南陵『続々・明治期大阪の演芸速記本基礎研究』には『藪井玄意漫遊記』(岡本偉業館、明治35年5月)の表紙にも「玉麟改め玉秀斎とある」(309頁)とある。南陵は「明治三五年五月頃に師の芸名を襲った」と記す(309頁)が、まったくその通りだろう。
幻の三代目だが、これも『続々・明治期大阪の演芸速記本基礎研究』の記録が頼りになる。南陵は玉枝斎、玉秀斎の名を新聞で探し、次のような記録を見つけている。
「神戸の興行物 一月一日 旭亭 玉田玉麟 東光斎楳林」(明治三四年)
「神戸の興行物 八月一日 旭亭 玉田玉秀 斎一座」(明治三四年)
「神戸の興行物 九月一日 旭亭 玉田玉秀 斎一座」(明治三四年)
全て朝日新聞神戸付録版各月一日付の記事である。(309頁)
と記す。南陵はこの時点で初代の没年を知らなかったので、『続々・明治期大阪の演芸速記本基礎研究』では、初代の最後の舞台を明治34年8月とみている。しかし、M家で初代の没年を知ってから、明治34年の新聞に登場する玉田玉秀斎が、本名加藤万次郎の玉田玉秀斎に先行する二代目の玉秀斎―おそらく玉麟の兄弟子、と南陵が考えるようになったと四代目玉田玉秀斎から聞いた。
以上が幻の二代目がいて、今まで二代目と呼ばれていた玉田玉秀斎が実は三代目だった理由である。
私もこれで正しいと思う。池田蘭子『女紋』はまったく幻の二代目に触れていないが、『女紋』は池田蘭子あるいは執筆補助者が自分たちに都合よく書いた部分がたくさんある。襲名に関するいざこざがあって、それを隠すために池田蘭子が触れなかったとみている。これは歌川豊国の襲名を思い起こさせる。初代豊国のあとを養子の豊重が襲ったものの一門では認められず、三代目となった初代門下の国貞が二代目を名乗った例である。
明治31年夏に襲名したように書かれているのは、語るに落ちるとはこのことで、二代目玉秀斎が明治31年夏に襲名したことと、三代目の襲名をぼかしてまぜあわせてしまったのではないか。新しく発見された「二代目玉田玉秀斎」については今後の調査が必要になるだろうが、少なくとも初代の没年月日、三代の襲名年月が明らかになったので探しやすくなったのは確かである。
四代目玉田玉秀斎は、四代目旭堂南陵の弟子。旭堂南陽から平成28年(2016)11月に玉田玉秀斎を襲名した。三代目が大正8年(1919)にコレラで亡くなってから、約百年ぶりの名跡の復活である。すでに本業の講談、ラジオのパーソナリティに映画コラムの執筆と幅広く活躍している。本稿を書くに当たってご教示いただいたお礼を述べるとともに、四代目玉田玉秀斎のいよいよの活躍を願って筆を擱くことにする。(吉丸記)