国際忍者研究センター

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(学生通信)中国十大刺客⑨(院生 鄒開宇)

2021年06月29日

 皆さん、こんにちは。中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。前回は中国の春秋時代の晋国の刺客を紹介しましたが、今日は引き続き中国の十大刺客を紹介します。今日は第九位を紹介します。彼は戦国末期の伝説の刺客、荊軻(けいか)です。彼はたぶん中国の歴史上で一番有名な刺客かもしれません。彼の壮挙はもう少しで中国の歴史を書き換えるところでした。その事跡は『史記・刺客列伝』の中で素晴らしい描写がありました。
 荊軻はもともと斉国の慶(けい)氏一族の末裔で、その後彼らの家族は衛国に引っ越して、また自分の姓を荊に変えました。その後荊軻はまた衛国から燕国に行き、燕国で多くの友達と知り合いました。
 戦国末期、秦国は多くの国を併呑しました。燕国の太子の丹(たん)はある日、燕国も滅亡されると恐れて、先生の鞠(じゅ)武(ぶ)に燕国が秦に滅ぼされることを避けるにはどうすればいいかと教えてもらいました。でも、鞠武も仕方ありません。後に樊於期(はんおき)という将軍が秦国から燕国に逃げて丹に引き取られました。このようにすると秦王を怒らせ、燕国の滅亡を加速させるだけだと鞠武は考えています。しかし、丹太は極めて秦国の軍隊の威力を恐れてもっと多くの秦国に抵抗する人を知りたいです。鞠武は仕方なく丹に田光(でんこう)という謀略に強い人を紹介し、田光に方法を教えてもらったと建言します。しかし、丹は田光と会った後、田光は自分がもう老いてその重大な任務を任せられても遂行できないと思って、友達の荊軻を丹に推薦しました。
 その後、田光は彼と丹を会って、荊軻を丹に推薦したことを荊軻に教えました。田光は荊軻が自分の代わりに無事に丹の任務を完成することができることを望んで、荊軻とこれらの事を言い終わった後で秘密を守ると同時に丹を安心させ、しかも荊軻に拒絶させられないように、荊軻の目の前で自殺しました。
 荊軻は仕方なく丹に会いに行きました。丹は荊軻に土下座して、秦王を脅し、占領した他の国の土地を返還させ、それとも秦王を殺して、他の国が秦国の混乱に乗じて連合して秦国を打ち負かす機会を作らせるように懇願しました。
 荊軻は丹の話を聞いてから、この任務が非常に困難であると感じて、丹の嘆願を拒絶しました。丹は諦めず最も良い待遇で荊軻を招待して、力を尽くして荊軻のすべての要求を満たしました。最後に荊軻は本当に再度丹を拒絶できなくなって、任務を受け入れることに同意します。
 でも荊軻はまだ全然出発しようとする様子が見えません。丹は恐れて、荊軻に早く行動するように願いました。荊軻は今秦に行くと思っているが、秦王に自分を信じさせる理由がないので、秦国へ行っても樊将軍の頭と燕国の地図を持っていなければ秦王に会えないと説明しました。しかし、丹は樊於期を殺したくないです。荊軻はしかたなくひそかに樊於期と会いました。荊軻は丹の計画と彼の考え出した秦王の対面の方法を話した後、樊於於期は断固として荊軻の前で自殺しました。丹は樊於が死ぬ事を知ってとても悲しがるが、仕方なく樊於期の首を切って頭を箱に入れて、荊軻に渡しました。
 丹はまた荊軻へ毒素を塗った燕国の最も良い短剣を贈って、燕国の最も有名な武士の秦(しん)舞(ぶ)陽(よう)を派遣して荊軻の助手をさせて、しかし荊軻はやはり出発の計画がなくて、理由は彼が友達を待つのです。丹はもう我慢できなくて荊軻に早く行動するように促しました。荊軻は仕方なく出発しました。丹と燕国の大臣たちは荊軻が出発する時に白い服を着て白い帽子をかぶって見送りました。その時に荊軻は友人の高漸離(こうぜんり)の筑に和して「風蕭々として易水寒し,壮士一たび去って復た還らず」と歌いました。
 しかし、丹と荊軻とすでに十分に準備されていたが、秦王に会った後、暗殺行動は失敗しました。荊軻と秦舞陽は秦王の侍衛に殺され、丹のこの挙動はやはり秦王を大いに怒らせました。その後、燕国の首都はすぐ秦国の軍隊に占領されました。丹と燕国の王の喜と遼東に逃げました。それから喜は秦王の許しを得るように代国の国王の讒言を信じて丹を殺し、丹の頭を秦王に捧げました。しかし、秦王が欲しがっていたのは復讐だけではなく、彼が欲しがるのは天下を併呑することです。秦王は燕国を滅ぼすスピードを遅くしていませんでした。やがて秦国の軍隊は喜を捕虜して秦国の首都の咸陽に預けて、燕国は徹底的に滅亡しました。