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(学生通信)中国十大刺客⑩(院生 鄒開宇)
2021年07月06日
皆さん、こんにちは!中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。前回は中国の戦国末期に燕国のために、秦の始皇帝を刺殺しそう刺客である荊軻を紹介して、今日は引き続き中国の十大刺客を紹介します。今度はこのシリーズの最後の一篇です。今度ご紹介させて頂く人物は戦国末期の刺客である侯嬴(こういん)です。彼の事績は司馬遷によって《史記》に書かれました。中国の歴史上でも非常に有名な刺客で、高校生の時には国語の教科書にも侯嬴に関わる文章がありました。
侯嬴(?-紀元前257年)は戦国時代の魏国人です。当時、侯嬴はもう70歳になりました。大梁(現在の河南省開封市)の夷門(いもん)の小役人として働いています。彼は頭の中に計略にあふれているが、自分の才能を積極的に表現しないで、門番になりたいです。彼の情況は信陵君という魏国の権力者の貴族の門客に紹介されて、貴重な贈り物を持って彼を見舞いに来たが、侯嬴に地位と金銭と必要でないという理由で拒絶されました。
侯嬴のライフスタイルは、かえって信陵君の興味を引き起こしました。ある日、信陵君は酒宴を催し、賓客をもてなしました。客たちは皆座ったが、信陵君は席に着かず、車馬のお供を連れて、わざわざ夷門に来て侯嬴を招待に来ました。侯嬴に対する敬意を表すために、彼はまた尊貴を象徴する左側の席を空けて、侯嬴に座らせます。侯嬴は直接ぼろ衣やぼろ帽子を片付けて、無遠慮に信陵君の空いている左の席に座り込みます。
途中で侯嬴は信陵君に馬車を止めさせました。「あら、市場で肉を売っている友達がいますので、私と一緒に友達を見に行こうとお願いします。」って侯嬴は言いました。信陵君は迷わずに自分で馬車を走らせて市場に来ました。侯嬴のこの友達は朱亥といい、肉を売っています。侯嬴は信陵君が焦っているか焦らずかにも関わらず、そこに立って朱亥と親しげに話しています。信陵君と一緒に侯嬴を迎えに来たお供たちは、とても焦っていました。しかし、侯嬴はゆっくりとようやく車に戻りました。
信陵君の家に来たら、信陵君は侯嬴を上座に譲って、一つ一つ賓客に紹介します。客たちは長い間待っていて、なんと待っていたのは上座に座っている門番の下人で、腹が立ちます。この時になって、侯嬴はやっと立ち上がって信陵君に「あなたがうわさのように門客に親切であるかどうか見てみたいです。本当に私のような小役割でも自分で迎えに来てくれました。だから、わざとみんなに見てもらって、あなたはさすが謙譲に門客を招待する君子です」と言います。
このようにして侯嬴は信陵君の上客となりました。信陵君はまた、朱亥はどんな人かと聞いて、朱亥も門客として雇いたいと思って、何度か訪ねてきました。しかし、朱亥は故意に信陵君を見舞いに行きませんでした。
紀元前257年になって、秦王が大軍を命じて趙国を包囲攻撃しました。趙国は危篤状態です。趙国の国王が信使を派遣して魏国に来て援助を求めます。魏王は晋鄙を十万人の大軍を率いて増援に赴かせました。でも秦王は消息を知って、魏王を脅しました。魏王は恐れて、また急に途中で晋鄙を命令して、軍隊が前進を止めます。信陵君は何回も魏王に趙国の増援をお願いしましたが、断られました。
信陵君は趙国が秦国に滅ぼされたくないので自分で戦車を集めて、門客たちを連れて趙国を助けに行きたいです。夷門を歩いている時、侯嬴を見て、自分の決心を侯嬴に話しました。侯嬴は「公子は一生懸命に前進しなさい。わしはあなたたちと一緒に行けないかもしれません。」信陵君は軍を率いて夷門を出て、歩きながら侯嬴の話しを考えました。普段は侯嬴に対するのがとても親切だったのに、今回は戦いに行くならどうして私にそのような変なことを話したか?どうして送別の言葉もないか?信陵君は考えれば考えるほど戸惑うので、馬を転じて、夷門へ戻るとなんと侯嬴がそっちに待っています。侯嬴は信陵君に「公子は有名人をとても大切にしていることが誰でも知っています。今は危ないことがあって、名士たちの役割を十分に発揮しないで、秦軍と戦うのは肉を持って虎口に投入するのと何の違いがありますか?」と言います。
信陵君は急いで侯嬴に策を教えてもらい、計画通りに魏王の寵愛の如姫から虎符をもらいました。晋鄙から兵権を奪取して、大軍を指揮して趙国を救おうとします。
信陵君はまた出発しようとするうちに侯嬴は「公子は虎符を持っていますが、晋鄙は公子に軍権を渡すとは限りません。朱亥を連れて一緒に行って下さい。朱亥は力持ちです。もし晋鄙は順調に軍権を差し出したらいいではないですか。もし交際しないなら、朱亥に彼を殺すことができます。」と信陵君に言います。そこで信陵君は侯嬴の手配に従って、朱亥を頼みに行きました。朱亥は楽に信陵君と一緒に晋鄙を探しに行きます。
すべての手配ができました。侯嬴は信陵君に「わしはもう年を随分取って、公子と一緒に戦うことができないです。でも、公子のスケジュールを計算して、晋鄙の軍営に着いたら、北に向かって自殺して公子の恩に報いるつもりです。」信陵君は晋鄙の軍営に着いて虎符を提示したが、晋鄙はやはり軍隊を渡そうとしません。ですから朱亥は晋鄙を殺しました。信陵君は大軍を指揮して趙国に赴き、ついに秦軍を撃退し、趙国を保全しました。
信陵君が晋鄙の軍営に到着した日に、侯嬴はやはり約束を実行して、北方に向かって自殺しました。(院生 鄒開宇記)