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(学生通信)中国十大軍師②(院生 鄒開宇)
2021年07月20日
皆さん、こんにちは。中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。前回は中国の明朝末期から清朝初期にかけての伝奇軍師の范文程を紹介しましたが、今回は引き続き中国の十大軍師を紹介します。今日は第二位を紹介します。彼は春秋時代の范蠡(はんれい)です。
紀元前536年、范蠡は宛(えん)(今の河南省南陽(なんよう)市)に生まれました。彼の家庭はとても貧しかったが、また博学多才で文武両道の人になりました。
紀元前493年、勾践(こうせん)は呉王夫差(ふうさ)が毎日軍隊を訓練していると聞きました。彼は呉の軍隊がまだ来ていないうちに先制したいです。范蠡は慎重に対処するよう勧めたが、勾践は率先して呉の軍隊に攻撃することを堅持しました。呉王夫差はこの話を聞いて、軍隊を動員して越国軍を打ち負かしました。勾践は追撃され、会稽山(かいけいざん)に閉じ込められました。この時から范蠡はやっと勾践に重用されるようになりました。
勾践と范蠡は対策を協議した後、仕方なく呉に投降することを決定しました。紀元前493年、范蠡が呉に来て三年間の奴隷生活を始めました。
紀元前490年、呉王夫差は越国を赦免したばかりで、越王勾践、范蠡が呉国を離れて越国に帰りました。越王勾践が帰国してから臥薪嘗胆して、毎日こつこつと色々国の事務を処理しています。勾践は范蠡を国政治理に参与させたいと思うので、そこで、范蠡は文種を推薦しました。これから越国は文種と范蠡の補佐の下でますます強大になりました。
また、范蠡は積極的に経済を発展させ、社会を安定させ、民衆の好きな政策を推進し、民衆の嫌な政令を取り除き、朝廷の内部関係を調整するよう提案しました。病気の人がいて、自ら見舞いに行きます。亡くなった人がいて、自ら葬式に行きます。もし誰かが家に異変があったら賦役を免除すします。これらの措置は民衆を安定させます。軍事力を高めるために、范蠡が都を再建します。都を建てる途中で、范蠡は呉の国に見せる二つの城も建てました。この二つの都市は不完全で、呉に向く方向はまだ城に城壁がありません。これで夫差を惑わせました。范蠡は軍隊の訓練を重視し、士気を高め、戦闘力を高めるために、決死隊を組織し、最高額で奨励しました。さらに夫差を惑わせるために、范蠡は夫差の好きなものを贈って、夫差の歓心を買いました。特に夫差に中国の有名な美女の西施(せいし)も奉献し、夫差の意志を消耗させます。
紀元前486年、越王勾践は呉を攻略したいと思ったが、范蠡に阻止されました。紀元前484年、呉国が再度斉国を攻撃する時に、越王君臣は呉王に会い、また呉国人を麻痺させるために呉王の身元の大臣を賄賂して、呉国の重要な大臣の伍子胥さえ殺して夫差に挑発しました。この時に勾践は范蠡に呉国を攻撃してはいけるかと聞いて、また范蠡に止められました。
紀元前482年、呉王は北方に行って諸侯に会い、呉国の最も強大な軍隊は全部呉王と一緒に北方に行きました。呉国の国内には僅か皇太子と呉の軍隊の一部が駐屯しています。勾践は再び范蠡にこの時呉を攻撃してはいけるかと聞いて、ようやく范蠡が同意しました。そこで、勾践は越の軍隊を率いて呉を攻撃し始まりました。呉の軍隊は大敗し、呉の太子さえ戦死しました。呉の軍隊は呉王に援助を求めて、呉王は諸侯に会っているうちに各国家の諸侯が呉のことを知って機会に乗じて呉を攻撃するのを恐れて、このことを隠しました。呉王は諸侯に会った後、越王に貴重な贈りものを送って、越の軍隊が撤退するのを願います。勾践は今の越の軍隊は呉国を徹底的に滅ぼすことができないと考えて、呉王の要請を受けて軍隊を撤退しました。
紀元前478年、越の軍隊は再び呉国を攻撃し、越の軍隊は呉の軍隊を大敗しました。紀元前475年に越の軍隊は呉の軍隊を包囲しました。范蠡は包囲しても攻撃しない戦略を採用して、呉の軍隊を崩壊させました。紀元前473年、年末に越国が呉国を滅ぼし、夫差は自殺しました。紀元前468年、越王は全国制覇の願望を実現しました。でも范蠡はこの時に美人の西施を連れて越国を離れて斉国に来ました。彼は将来勾践が文種を殺すと思って、斉国で文種に手紙を書いて、文種も越国を離れることを提案しました。しかし文種はまた勾践に自殺されました。
范蠡は斉国で名前を変えて、商人になりました。彼は商売がとても上手で、お金をたくさん稼いだが、お金を斉国の貧乏人に分けました。その後陶という所に引っ越しました。それで彼は陶朱公と名乗るようになりました。
紀元前448年、范蠡が88歳で亡くなりました。彼はとても聡明で商売が上手なので、中国人は彼を商聖や財神と呼んでいます。今でも多くの人が彼を崇拝し、祭っています。(院生 鄒開宇記)