国際忍者研究センター

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(エッセイ)軒猿のはなし(吉丸雄哉)

2021年11月22日

 忍者の異称として「軒猿」(のきざる)がとりあげられるのは、忍術書『万川集海』に忍者の同類としてその名が上がることからとされる。

 しかし、内閣文庫本『万川集海』巻1「忍術問答」を実際に確認すると「忍びの名、本邦にても色々変り、夜盗スツハ三者簷猿饗談などとある也」と「簷猿」という用字で、なおかつこれにふりがなはない。「簷猿」は「簷猿と云も敵の内證を見る役なるに依て、忍びとは不云して簷猿と云のみ」と解説してある。

内閣文庫本『万川集海』は影印が公開されており、
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000033997&ID=M2019051310512261194&TYPE=
から、23番目の画像に飛ぶと確認できる。

 そのほか『万川集海』では上記のURLの19番目の画像のように
「吾邦にて忍夜盗スツハ簷猿三者饗談などと云類也」
と説明してある。

 同じく、巻一「凡例」には(上記URLから8番目の画像)
「陽忍の下篇に視観察の簷猿の術を記す事は忍者は敵の様子不可不見聞の職なり」
という用例もある。

  いずれにしても読み仮名がない。「簷」だと意味は「のき、ひさし」だが字音は「えん」なので、「簷猿」を「のきざる」と読むのは意味から読んだのだろう。「軒猿」と表記する本があるのは、後述の『北条記』に登場することもあるが「簷」が常用漢字ではないため、意味からとった当て字だろう。「簷猿」は珍しい言葉で『諸橋大漢和辞典』にも用例がなく、なぜ「簷猿」がここで使われているのかわからない。

『万川集海』で忍術が盛んに行われたとする(「忍術問答」冒頭、先のURLから18番目の画像)、中国の黄帝が姓は公孫、氏は軒轅であることに関係あるという説を散見する。それなりの説得力があるが、決定的とは言いがたい。

「軒猿」の用例もほとんど見られない。これに関して平山優が詳しく指摘しており、それは次のようなものである。

例えば、上杉の「軒猿」は、上杉関係の軍記物にすら、管見の限りまったく見当たらず、そもそも誰がそれを言い出したのかすら判然としない。では、「軒猿」という忍びが、完全にフィクションかというと、それは誤りで、『北条記』(『続群書類従』)巻三の「高野台合戦之事」の一節に「小田原方の軒猿由井源蔵殿の内横江忠兵衛と大橋山城守とて、究竟一の忍ひの上手にて、敵陣へ忍入、此躰念比に見て帰り、申上けれは」と登場する。これは、永禄七年(1564)の国府台合戦の時、北条氏照(うじてる/由井源蔵)配下の「軒猿」と呼ばれていた屈強で有能な忍び二人が、敵陣に潜入して詳細な情報を掴んで帰ったというものだ(但し『北条史料集』所収の内閣文庫本には、「軒猿」という表記がない)。つまり、現段階で、文献を検索した限りでは、「軒猿」とは、上杉謙信配下の忍びではなく、北条氏康・氏政配下の忍びの呼称だったことになる。
(文春オンライン 「忍び」を重用した武田信玄 創作と史実が入り交じる「忍び」の実態に迫る
 https://bunshun.jp/articles/-/40128  最終アクセス2021/11/18)

『北条記』は塙保己一編『続群書類従』第21輯上「合戦部」に収められ、確かに「軒猿」という表記がある(477頁)が、平山が指摘するように『北条史料集』所収の内閣文庫本にはないのは気になるところである。なお、平山は字数の都合で外したのだろうが、『北条史料集』では「小田原方の物見」となっている(117頁)。

  それでは上杉の忍者は何と呼ばれていたのか。山田雄司『忍者の誕生』では「上杉氏の忍び」として、軍学書『北越太平記』巻5上(1698成)から「夜盗組」と「伏齅」(ふしかぎ)を、『越後軍記』(1702序)から「聞者役」(もんしややく)を紹介し、「軒猿」に関しては確認できないとしている(58・59頁)。なお、山田も「軍学書」と注記しているが、『北越太平記』は題名からいうと軍記のようだが軍学書『武経要略』の異本のひとつである。

  平山優『戦国の忍び』では「上杉謙信が頼りにした「目付」」として第五次川中島合戦で偵察や攻撃の案内に活躍した「目付」を紹介するが(259~261頁)、これが上杉の忍者の一般的な名称だったかまでは不明である。

  ところが現在は「軒猿」は上杉の忍者の代名詞とされ、小説の火坂雅志『軒猿の月』(2008)やマンガの薮口黒子『軒猿』(2009~2010)のように題名に冠した作品が登場している。

  国立国会図書館のNDL-OPACで「軒猿」と入力して、古く登場するのは、司馬遼太郎「軒猿」(『近世説話』4、1960)である。「軒猿」は上杉の忍者の代名詞となったのは影響力のある司馬遼太郎のせいかと思ったのだが、確認したところ、上杉の忍者と関係した内容ではなく、「軒猿」は伊賀の地侍の奉公人を指す語であった。
司馬遼太郎が上杉の忍者としていないので、おそらく1960年以降に登場した忍者解説本が『北条記』を誤読して、上杉の忍者として「軒猿」をとり上げたように思われる。

  さて、上杉の忍者が「軒猿」ではないのは措くとして、「簷猿」が忍者の異称と『万川集海』でとりあげられたのはあらためて考察が必要だろう。
 『万川集海』には北条流兵法の影響がある、少なくとも著者「冨治林傳五郎保道」(福島嵩仁『「万川集海」の伝本研究と成立・流布に関する考察』、忍者研究4、2021の説)は北条流の兵法書を読んでいると思っているが、「簷猿」も北条氏長『兵法雌鑑』(1635成)人事巻11「繋簷猿の事」に登場する。石岡久夫編『北条流兵法』(人物往来社、1967)には「簷猿」(ものみ)とふりがながあるが、特殊な字にはふりがなをつけるという凡例からして、おそらく編者の石岡がふりがなをつけたのだろう。
 長いが重要なので当該箇所をすべて引用する。

  繋簷猿の事
一、繋物見と云は、小物見ばかりにては四方に心をくばり、目を付(け)、地形険難を見はかり、或はかまりの用心に心をくばりて、まをとる故に、助物見とて武者を二騎出し、本物見と三騎なり。此時は本物見はすぐに本道を行、働の場、或は敵の様子ばかりを見はかるなり。扨又つなぎのすけ物見二人は、左右の脇道を行、かまり、或は帰る道などを見はかりて、悪所伏兵などあれば、あいづの物見を以(て)物見につけ、こと成(る)事なければ、本簷猿馬を立る所にて、其跡を乗(り)ちがへ候へば、本物見子細なしと心得て、又深く入(り)、先へ進て見はかるなり。必(ず)本物見より先へ進(む)事なかれ。本物見をうやまふが故なり。但(し)又本物見より先へ進み乗(り)ちがふは、本物見をあなづるが故なり。猶口伝ふかし。又曰、繋物見には送足軽迎備と云事可有なり。口伝。(138頁)

  本文中「簷猿」が「物見」と同義であることは理解できるだろう。「物見」は今でいう斥候のことで、敵地・敵陣の偵察のために、本物見一騎と助物見二騎の計三騎の武者を派遣するのがここでの兵法である。
塙保己一による武家用語辞典といえる『武家名目抄』には「物見」は非常に詳しく「物見番」「大物見」「小物見」「物見足軽」「遠物見」「忍物見」と分類する。「物見足軽」と「忍物見」は徒歩だが、他の物見が騎馬である。「物見」を広く情報収集の偵察とすれば、「簷猿」も忍者の類といえるだろうが、なぜその字が当てられたか、現時点では不明である。

  以上、「簷猿」について、現時点でわかったことを記した。『兵法雌鑑』にはどうして「簷猿」と記したのか、上杉の忍者を「軒猿」というようになったのはいつか、重要な疑問が残っているが、これもいずれ解明されていくだろう。(吉丸記)