国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
忍者の歴史や文化を研究し、その成果を発信しています。

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(学生通信)『忍者と玉秀斎 その1』(院生 四代目・玉田玉秀斎)

2022年04月26日

 2016年11月25日、それまで旭堂南陽として活動していた僕は四代目・玉田玉秀斎として大阪・文楽劇場の高座に上っていた。
 先代・玉秀斎は1919年に亡くなっており、それ以来玉田家はこの世から消え途絶えていた。今回の玉田家再興により、97年ぶりに玉田家の名前がこの世で再び動き出したのだ。

 僕が講談師になったのは2001年11月11日。この日を境に本名で生きることは少なくなった。ほとんどの時間を芸名で過ごすことになる。一番の変化は師匠・南陵との関係だ。芸名を頂くまではとても優しかった師匠・南陵が鬼のように怖い方になった。

 そんな怖い師匠が常々仰っていたことがある。それが
「いつか必ず玉田玉秀斎を復活させる」
 ということだった。
 ぼくはそれを聞いても何の感情の変化も起こらなかった。
 ただ「へぇ~、そんな名前もあるのか」と思ったぐらいで、それ以上深く玉田玉秀斎について勉強しようとも思わなかった。

 そもそも僕は講談師になりたくてなった訳ではない。
“たまたま”が重なって、気づいたら講談を素人として習い始め、その4か月後に師匠の御言葉で講談師になってしまった。
 その言葉とは
「弁護士も講談師も最後に“し”がついてるから一緒や」
 というモノだ。
 こんな師匠のダジャレで自分の人生を決めてしまった僕がすぐに講談に興味をもつはずがない。師匠は鬼のように怖いのだ。
「そもそも講談とは何なのか?」を考えることもせず、「講談の歴史」にも興味を持たず、師匠が「なぜ講談速記本に多額を費やすのか」さえも理解しようとしなかった。
 ただ、師匠から頂く厳しさに耐え、唯一怒られない場所、高座の上で口演をしていて楽しい講談だけを追い求めた。

 楽しい講談とは、『本当にこの話面白いから聞いて』と思えるものだ。
 僕にとって、そのような講談は英語講談、即興講談、地元の方々が忘れてしまったけれど物凄くその地を表現する講談、ジャズやアコーディオンなどとの音楽コラボ講談、なぜ人はホームレスになってしまうのか、そんな疑問を解くために取材をして語るビッグイシュー講談など、知的好奇心の扉を開いて頂けるような講談だ。

 古典講談以上に、新しい講談をつくることに楽しみを感じてしまったのだ。
 そんな僕に師匠・南陵は四代目・玉田玉秀斎を継ぐように言った。
 時は2016年3月、毎月恒例の一門勉強会の楽屋でのことだった。

 それはなぜなのか!講談師らしく続き読みでお伝えいたします。
「ここからこのお話おもしろくなるところでございますが、それはまた来週のお楽しみ!」
 ありがとうございました。(院生 四代目・玉田玉秀斎記)