国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
忍者の歴史や文化を研究し、その成果を発信しています。

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(学生通信)『忍者と玉秀斎 その10』(院生 四代目・玉田玉秀斎)

2022年08月01日

 講談『堀尾吉晴と忍者』プロジェクトが進行中に全く別件で
「群馬県の吾妻に忍びの末裔たちがいるのでお話を聞いてみませんか」
 とお誘いを受けた。断る理由は全くない。
「忍びの末裔!喜んで、行かせて頂きます」
 こうして初めて、群馬県は吾妻に向かうことになる。

 僕の持っている吾妻の知識は、その地でヤマトタケルが言ったという
「あぁ、我が妻」
 それが元となって「吾妻」という地名になったというぐらいだ。

 行く前に話を聞けば、吾妻は武田信玄に仕えた真田幸隆、昌幸親子が大活躍した地で、幼い幸村も過ごした所らしい。
「折角なら」と、信州の武田家ゆかりの地を巡ってから吾妻に入ることになった。

 三泊四日の忍び旅。
 吾妻で出会った忍びに関わるお名前を列挙すると、
「根津」「割田」「唐沢」「出浦」「富沢」「横谷」「三善」などなど。

「根津」というお名前は真田十勇士に『根津甚八』がいるので馴染みがある。
「三善」も十勇士の「三好」と音は一緒だ。
 しかし、他のお名前は馴染みがない。

「玉秀斎さん、吾妻忍びの物語は沢山残っています。吾妻忍びで真田十勇士が出来そうでしょう?」
「そうですね。これだけの材料が揃っていれば充分に吾妻の十勇士作れますね」
「是非、作って下さい」
「はい、喜んで!ただ、勉強をもっとしないと物語を作れません。是非、歴史の現場を見せて下さい。もっと関係者にお話を聞かせて下さい。頂ける資料を是非下さい」
「もちろんです」
 と『吾妻忍び』のプロジェクトがスタートした。
 そんな中、訪れたのが岩櫃真田忍者ミュージアム『にんぱく』。
 そこには忍びの道具が常時、数百点展示されている。
 その展示をみていると、壁にあったのが、三重大学・山田先生の写真とお言葉のパネル。
「ここにも『三重大学』『忍者』「山田先生」がいたか」
 玉秀斎の外堀は完全に埋まり、内堀もほぼ埋まりかけている。
 忍びたちは確実に玉秀斎の本丸に近づいている。(院生 四代目・玉田玉秀斎記)