- ホーム
- ブログ
(学生通信)隠密だけど隠密にしたくない時もある?(院生三橋源一)
2019年01月31日
忍びたる者「術の痕跡すら見せずに任務を成し遂げるべし」という姿勢が、根底にある様です。忍術書には例外として「これは大した忍びだ!こんな忍びに入られたのではどうにも防ぎようがない!」と敵を感嘆たらしめ、恐れさせることで大きな効果が得られる場合はそのようにすべし、と記載されています。
とはいえ「忍び難きを忍び」練り上げた術を誇りたい気持ちは、職人気質の忍びなら当然あるはずで、有名な万川集海にも散見します。この場合は術よりも伝来された忍具を自分がいかに使いやすく、効果的、それでいてコンパクトに改良したかを誇らしく記載してあり、一見微笑ましくも思えます。
さて忍具の部類でもう一点、実は仲間内だけでなく、大々的に我が術をアピールできるものがあります。それは何でしょうか。人目につくことで効果があるもの…そう火器類です。
上記、万川集海が編纂された当時でさえ「伊賀者といえば火器と思われる節があって…」という記載がみられますが、江戸期以降、やはり伊賀者といえば泥棒や盗賊と違う点は火器をよくする点であり、藤堂藩における藪廻り無足人は通常より火薬をよく扱い、時折その腕前をお殿様に披露したとかしないとか…また、火術を良くした藤林一族の手力神社は秋の奉納花火が有名ですが、これも一部は自らの術の精緻をアピールするねらいもあったのかもしれません。
このように奉納という形で人目につく場合は、逆に先に記載した様に「これは大したものだ!」とうならせることが重要であり、その場合は隠密にする必要はなかったのかもしれません。話はかわりますが、今年の三が日、縁あって大阪の神社で奉納演武を行いました。我が流派の他にも古流、西欧剣術、中国拳法等々が奉納演武を行いましたが、不思議と奉納という場では、共に神様に奉納するという意識が働いているのか、長所を認めあう雰囲気が生まれ、また交流しようという空気も生まれました。忍術に限らず、日本伝来の古流を守る人の何と少なく、また守っている人たちが何と健気なことか、このことを思うと時場所構わず叫びたくなるような気持にいつも襲われます。
どうか昭和、平成と何とか、つながってきた絶滅寸前の伝統芸能が次の年号でも連綿とつながっていくことを願わずにはおれません。忍術もこの点に関しては発祥以来、隠密にしている場合ではない時を迎えているかもしれないと思うこの頃です。(院生三橋記)