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(学生通信)中国歴史上の間諜(院生 リトクヨウ)
2020年08月05日
皆さん、こんにちは、修士一年生のリトクヨウです。今回、中国の歴史に存在する間諜について、話したいですが、よろしくお願いします。
現在、中国に認められる間諜の第一人は恐らく『女艾』である。「左伝·哀公元年」によると、夏の君主である少康は女艾の助けがあったから、敵「澆」を敗北させ、夏の正統が建たれる。それから、「女艾間澆」は古代中国間諜歴史上の代表的な事件だとされた。そして、「女艾」という役目も歴史の中で流れてくる。
中国三国時代、女艾も活躍した。「曹操を言ったら、曹操がくる」のように、曹操は沢山間諜を使い、いつでも、どこでも慎重しなければならない。「三国志」により、建安元年、曹操は司空になってから、間諜の機関としての「校事」を設置して、いろいろな間諜活動をしていた。このような機関も後の歴史に流れて伝わった。宋の時代になって、間諜の技術などが結構発展して、間諜は好まれていた。当時、間諜の身分はとても複雑で、各行各業にもある。外国に両国繋がりのために行かせる官員、外国と貿易をする商人、敵将の親族、愛人、或は普通の百姓、僧侶などはすべて間諜であるかもしれない。南宋初年、特に政府は海上情報システムという「水坼堠」を設置した。陸だけではなく、海までも間諜を遣わしていた。
当時間諜技術ですが、宋の人は暗証情報を「字験」といい、すなわち各種の情報を四十字の一つの詩に組み合わせて表示する。例えば、「武経総要」によって:軍中の事には四十種であり:請弓、請箭、請馬、請食料、請草料、請兵加、請固守、賊多、賊少、兵病気などで、順序があって、もし間諜が何か気づけたら、四十の決まっている順序に従い五言の律詩を書いて、味方に情報を送る。
間諜活動は生まれてからも消えることはなく、敵国があるかぎりずっと続ける。中国の間諜は歴史長いですが、記述されたことはただわずかな少しだけだと思う。なぜなら、ほとんどの間者は真実の身分を隠して任務を果たすわけである、いざ自分が漏れたら間者としての生涯はもう尽いたのである。
以上で、ここでお終わりしたいと思います。今度は具体的に中国の女の間諜活動について話したいですが、どうぞよろしくお願いします。(院生 リトクヨウ記)