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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―呉起②(院生 リトクヨウ)
2021年01月27日
みんなさん、こんにちは、院生一年の李徳洋です、今回も呉起について、書きます、よろしくお願いします。
文侯は呉起が用兵に長け、廉潔・公平な行ないでよく士卒の心をつかんでいるのをみて、西河の太守に任じ、秦·韓の侵略に備えさせた。
魏の文候が死ぬと、呉起は その子の武侯(在位、前三九五―前三七○年)に仕えた。〔あるとき〕侯は船に乗って〔視察のため]西河(黄河)を下ったが、流れの中央に出たところで、呉起を顧みて言った。
「みごとなものだ、この天険は。これはまことにわが魏国の宝だ」
すると呉起が、
「〔国を守るものは〕徳であって天険ではございません。そのむかし、三(さん)苗(びょう)氏(し)は左に洞庭(どうてい)湖(こ)、右に彭蠡(ほうれい)湖(こ)(鄱(は)陽(よう)湖(こ))という天険を擁しておりましたが、 徳義を修めなかったがために、禹(う)に滅ぼされました。夏(か)の桀(けつ)王(おう)は、左には黄河·済水、右には泰山·華山、南には伊闕(伊水両岸の 山。いまの竜門付近)、北には羊腸(太行山中の難路)を控えながら、背徳の政治を行なったため、殷の湯王に放逐されました。殷の紂王の国は、左には孟門山、右には太行山、北には常山、南には黄河を控えながら、徳政を布かなかったがため、周の武王に殺されました。これによっても分かるように、〔国を守るものは〕徳であって天険ではございません。わが君におかれましても、徳行を心がけられないときには、この船じゅうの者すべてが敵国となるでございましょう」
と言ったので、武侯は、
「いかにも、もっともだ」
と感じいった。
西河の太守呉起の名は、天下にとどろくようになった。その後、魏では宰相の職を設け、田文(斉の人、孟嘗(もうしょう)君(くん)。『史記』の「孟嘗君列伝」によれば、孟嘗君は魏の昭王のとき魏の宰相となったもので、呉起が魏にいたときより一世紀ほどのちということになる)を宰相に任じた。呉起はそれを不満に思い、田文に言った。
「わしは貴公と、国家に対する貢献度について論じてみたいが、どうでござろう」
「結構です」
「全軍の士卒を喜んで死地に赴かせ、敵にわが国をうかがうすきを与えぬという点で、貴公はわしに勝るとお思いか」
「貴殿にはとても及ばぬ」
「百官を取りまとめ、人民をなつかせ、国庫を充実させるという点で、貴公はわしに勝るとお思いか」
「貴殿にはとても及ばぬ」
「西河を守って秦の軍勢に東進を断念させ、韓·趙を支配下におくという点で、貴公はわしに勝るとお思いか」
「貴殿にはとても及ばぬ」
「以上の三点、貴公はいずれもわしの下におるのに、位のみわしより上とい うのは、どういうわけじゃ」
「主君はまだ、お若くて人心安定せず、重臣たちも去就を明らかにしていなければ、人民も心から服従していたわけではない。いま、このとき、貴殿とわしといずれが国政を担当したほうがよいと思われるか」
呉起は返答につまり、しばらくして、ようやく言った。
以上で、今回では、ここでお終わりさせていただきます。今度を呉起の終わりにします。どうぞよろしくお願いします。(院生 リトクヨウ記)