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(学生通信)中国十大刺客④(院生 鄒開宇)
2021年05月18日
皆さん、こんにちは。中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。前回は中国の戦国時代の魏国の刺客である聶政を紹介しましたが、今日は引き続き中国の十大刺客を紹介します。今日は第四位を紹介します。彼の記録は同じく『史記・刺客列伝』と『戦国策』と記載される中国春秋戦国時代の四大刺客の一人でもあります。
専(せん)諸(しょ)は、春秋時代の呉国棠邑(とうい)(今の南京(ナンキン)市六合区(ろっごうく)北西)人で、一生の中で最も有名な刺殺は呉王僚(ごおうりょう)を暗殺したのです。
呉王僚の伯父は呉王の諸樊(しょはん)です。諸樊には3人の弟がいます。兄弟順に並べば、弟は余(よう)祭(さい)、夷眛(いめい)、季子(きし)札(さつ)と言います。諸樊は季子札が賢明を知っていて、太子を立てず、兄弟の順番に従って王位を伝えたいと思いました。なぜならそれで最后に季子札が王様になれるからです。後に諸樊が死んだあと王位を余祭に任せました。そして余祭の死後、夷眛に伝わりました。元々夷眛が死んだら季子札に伝えるが、季子札は国王になりたくないので逃げました。仕方がなくて呉国人は夷眛の息子の僚を国君にしました。
呉国の公子の姫光(きこう)は自分こそ本当の後継者だと思っていて、呉王僚を殺して王になりたいです。だから彼は秘密に知恵と武力のある人をよく招待して、彼らの助けで王位を得るために準備しています。『呉越春秋』によると、伍子胥(ごししゅう)は楚国から呉国に亡命する途中、専諸が勇敢な勇士であることを知り、友誼を結んで、後に公子姫光に推薦しました。公子姫光は専諸を招いてから、重要な賓客に対するように彼を大切にします。紀元前516年に楚平王が死にました。この春、呉王僚は楚国が葬儀を行う機に乗じて、楚国へ軍隊を派遣しました。しかし楚国は軍隊を出動させ、呉国軍隊の後路を断たれ、呉国軍隊は呉国に帰ることができませんでした。この時公子姫光は専諸君に対して「この機会は失うことができん!それに、俺こそ本当の後継者なんだ!国君になるべきだ!季子札が帰っても、俺
を取り替えるわけがないんだ。」と言いました。専諸は「呉王僚は殺すことができるのです。呉国軍隊は国外で楚国軍隊に包囲されていますが、国内には正直で勇気ある忠臣がいません。このように僚は私達をどうすることができますか?」と応えました。
紀元前515年に、公子姫光は呉国の国内で防衛が弱い機に乗じて、専諸君と密謀して、地下室で鎧を身につけた武士を待ち伏せして、呉王僚を宴席に招待する名義を借りて彼を暗殺することを企みます。呉王僚は念のために衛兵を派遣して、王宮から公子姫光の家まで並べて、扉や階段の両側は全部呉王僚の側近です。そっちに立っている衛兵は皆槍を持っています。宴席がすっきりになる時に、公子姫光は足が病気を病むふりをして、地下室に入って専諸に魚(ぎょ)腸(ちょう)剣(けん)という刃が極めて鋭い短剣を焼き魚の腹に入れて、この焼き魚を呉王僚に献上させます。呉王僚の目の前に着くと、専諸は突然魚を割って、電光石火の瞬間勢いに乗じて短剣で呉王僚が着ていた鎧を貫いて心臓に突き刺さり、彼を即死しました。だが専諸も呉王僚の衛兵に殺されました。すると呉王僚の配下の人が一時混乱しました。この時公子姫光は待ち伏せしていた武士を突撃して呉王僚の部下をすべて殺させて、新しい呉国の国君として自立しました。それが呉王闔閭(へいりょ)です。その後、呉王闔閭は専諸の息子を上(じょう)卿(きん)という肩書きを任せて、魚腸剣を箱で封じ、二度と使いませんでした。
専諸塔はラッパの形である小さな塔で、塔は江蘇省(こうそしょう)無錫(ぶえき)市(し)の大婁(たいい)巷(こう)のある家の中に位置しました。専諸は太湖で魚を焼く料理方法を学んだことがあるので、後代の人は彼を「料理人の祖」として尊びます。昔は城内の住民がよく焼香供養に行ったが1966年に取り壊されました。
蘇州城の西部には専諸巷という街があります。内城河と城壁に隣接する街です。専諸の墓がここにあるから、この名がついたと言われています。その後は専諸巷の一帯がだんだん玉彫刻の業界の集中する所に発展して、故に専諸巷の名前も“穿(せん)珠(じゅ)巷(こう)”と誤認されます。(院生 鄒開宇記)