国際忍者研究センター

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(学生通信)中国十大刺客⑤(院生 鄒開宇)

2021年05月25日

 皆さん、こんにちは。中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。前回は中国の春秋時代の呉国の刺客である専諸を紹介しましたが、今日は引き続き中国の十大刺客を紹介します。今日は第五位を紹介します。彼はまた中国春秋戦国時代の四大刺客の一人です。
 豫(よ)譲(じょう)は春秋戦国時代の晋国人で、彼の名前は『資治通鑑第一巻』、『史記・刺客列伝』、『呂氏春秋・不侵』と『呂氏春秋・王道』に記録されています。
 豫譲は最初は範氏の家臣でしたが、その後は中行氏に家臣をしました。だが範氏の家臣であれ、中行氏の家臣であれ、勤勉に勤めていても重視されていませんでした。彼が失望してから智氏の首領である伯爵の姫瑶(じよう)(歴史に関わる典籍では彼を「智(ち)伯(はく)」と省略的に呼ぶ)の家臣になり、だんだん智伯に重用されました。彼の境遇が好転している時、晋(しん)出(しゅつ)公(こう)二十二年(紀元前453年)智伯は趙(ちょう)氏に攻撃したが、晋(しん)陽(よう)の戦いで韓氏と魏氏と連携する趙氏の首領趙(ちょう)襄子(じょうし)に滅ぼされました。智伯が滅ぼされた後、趙氏、韓氏、魏氏の三家は智伯の晋国における領地を分割しました。それだけでなく、趙襄子は智伯が憎いので、智氏の家族を殆ど殺した後智伯の頭蓋骨を漆に塗ってから杯を作ると命じました。
 豫譲は山に逃げて、智伯の恩を懐かしがり、非常に悲憤しています。智伯を殺しただけでなく、頭蓋骨を漆に塗ってから杯を作ると命ずる趙襄子を恨んで、智伯の仇を討って、趙襄子を必ず暗殺すると誓いました。
 そこで、豫譲は名前を変えて、刑を受けた人を装って趙襄子の宮殿の手洗いを修理に行きます。彼は懐刀を持って,趙襄子を刺そうとしています。趙襄子は手洗いに行きたいですが、手洗いに入ろうとする時に突然雰囲気がおかしいと感じました。だから彼は手洗いを修理する人を審問しろと命じ、すると服の中に懐刀を隠している豫譲を発見して捕らえました。審問される時に豫譲は歯に衣着せずに「主人の智伯の仇を必ず討つ!」と大声で呼んで、衛兵に殺されそう途端に趙襄子に逃がされました。実は趙襄子は豫譲の行動に感動されたのだから。趙襄子は「これは忠義な人です。ただ慎重に彼を回避すればいいです。しかも智伯の死後は相続人がいないのに、彼の家臣がまだそんなに仇を討つとは、天下の得難い賢人です。」と言い、そこで豫譲を釈放しました。
 豫譲は釈放された後も悔しいです。計画を順調に実施して復讐の意図を叶えるために、彼は漆を体に塗って、皮膚を腐敗させて、ひげや眉毛を剃り、炭火を飲み込んで、自分の声を枯らせてしまいました。ある日道で彼の友達が偶然彼を見分けて、「豫譲さんじゃないですか?」とびっくりとして聞き、豫譲は「そう、俺だ。」と答えました。友達は急に涙を流し出して「豫譲さんの才能によって、身を任せて趙襄子に仕えるならきっと親しくかわいがられます。親身になって寵愛(ちょうあい)されてから、やりたいことをすれば容易くならないのですか?」豫譲はそれが君臣の大義に反すると思って、反駁します。「身を任せて君主に仕えるのに、その君主を殺そうとするのは異心を抱いて君主に仕えるじゃないか?俺は今のこんなやり方を選ぶのは滅茶苦茶辛いとわかっているが、こんなやり方を選んだのは、天下の後世の人々が異心を抱いて君主に仕える臣下を恥じさせるためなのだ。」そう言われると友達が豫譲を敬服しました。
 豫譲は長期的な観察を通して趙襄子の外出する時間とルートを確認しました。その後彼は趙襄子が外出する前の日に、前もって趙襄子の必ず通過する橋の下で待ち伏せして、趙襄子が通る時に暗殺するつもりです。しかし、この橋を渡る時に隊列の中から馬が急に飛び起き、それは刺客がいるかと推測する趙襄子は部下に身の周りをよく探させろと命じ、矢張り橋の下に隠れている豫譲を見つけました。趙襄子は豫譲を責めて、「范氏や中行氏に仕えたことがないのですか?智伯は彼らを全部併呑したが、あなたは彼らのために仕返しをせず、かえってひたすら智伯の家臣になることを甘んじています。智伯はすでに死んで相続人さえいないのに、なぜまだこのように彼だけ仇を討つことを切望していますか?」と質問して、豫譲は「確かに嘗て俺は范氏、中行氏に仕えた。だが、彼らに庶民として看做されてくれた。それで俺は庶民なりに彼らに報ったんだ。でも智伯と言えば、彼は俺を大切な側近として扱ってくれたので、恩人に対するように恩返しなければ気がおかない。」と言い返します。趙襄子は豫譲の話しを感動したが、今度は豫譲を逃してはいけないと思いました。兵に包囲させるように命じました。
 豫譲は今回自分が必ず処刑され、趙襄子を刺殺する誓いを叶えられなくなることを知っていて、趙襄子に上着を脱いでもらい、象徴的に刺殺させると願いました。趙襄子は感服して、部下を自分の服を持って豫譲に手渡すと彼の要求を満たしました。豫譲は剣を抜いて何度も跳び起きて突いてから天を仰いで大声で「士は己を知る者の爲に死し、女は己を說(よろこ)ぶ者の爲に容(かたちづく)る(士為知己者死 女為悅己者容)。これで俺はようやく智伯に恩返した」と叫び、その後手で握る剣で趙襄子の前で自殺します。
 豫譲の事績が伝わり、趙国の人々はみんな彼の精神に感動し、彼の死に泣きました。(院生 鄒開宇記)