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(エッセイ)私はまだ甲賀を知らない (吉丸雄哉)
2021年10月15日
もうひと月ほど前のことだが、9月11日(土)に第4回国際忍者学会が開催された。甲賀市で2020年9月に開催の予定だったが、2021年2月に延期になり、それが2021年9月に延期になり、結果としてオンラインで開催された。知っての通り、8月にはコロナ感染者が激増した第5波が押し寄せており、オンライン開催の決定は仕方ないことだった。甲賀市はあらためて2022年度の会場を引き受けることになった。
オンラインでも参加費2000円が必要だったにもかかわらず、63人(うち発表者8人)の参加があった。議論も活発だったし、私は成功した大会だと思っている。今後、発表録画を会員のみに時限的に公開する予定である。
もともと甲賀で行われることもあって、大会テーマは「甲賀忍者を探る」であり、発表内容も甲賀関係のものが多かった。
面白いのは、発表者それぞれで甲賀忍者のとらえ方が違っていたことである。渡辺俊経「甲賀忍者外伝-戦国時代の甲賀は人材の宝庫-」では、甲賀が豊かで寺院が多くて識字率が高かったことが優秀な人材を輩出した要因としている。黒川清登「滋賀県とタイ東北コンケン県の山岳民族性の比較研究-観光資源としての忍者を地域に根差した知恵と見るための学び-」では、甲賀忍者を山の民とみて、また近江商人に通じる商人的な要素を見いだすのである。その他、三つの発表も甲賀忍者の前提がそもそも微妙に異なっていたように感じた。
鈎の陣で知られる長享の乱が1487年、それから江戸時代に幕府や各藩に仕官した甲賀者たちの活躍を幕末まで見れば終わりが1868年。令制国での近江国甲賀郡は、今の湖南市と甲賀市と日野町の一部を含む、かなり広い地域であり、信楽のような山地もあれば琵琶湖に近い平地もある。全国に甲賀町があるように各地で住んでいた甲賀者もいる。時間的にも地域的にも甲賀忍者は対象として大きいのである。
私が思う地理的な甲賀は、油日神社のある甲賀町から忍の里プララがある甲南町までの一帯である。明るい甲賀と暗い伊賀という把握をしていた司馬遼太郞の『梟の城』や『街道を行く』の影響もあってか、甲賀は伊賀に比べて開けた土地で人気(じんき)も明るいというのが、私が抱いていた印象であった。
ここにきて甲賀の印象が定まらなくなったので、先日たまたま忍者忍術に詳しいI氏に会ったさいに甲賀の印象を聞くと、「谷ですね」と言われたので唸った。
山田風太郎『甲賀忍法帖』では、甲賀衆は卍谷に住んでいるのである。山田風太郎は『甲賀忍法帖』執筆時に伊賀も甲賀も訪れたことがなかった。だから『魔界転生』の鍵屋の辻(三重県伊賀市小田町)もそうだが、地理的にはいい加減なことが書いてある。伊賀の鍔隠衆だがこれも谷に住んでいる。伊賀に来る前は下山天監督『SHINOBI』(2005)みたいな土地かと思っていたので、伊賀に来て、盆地ながら十分開けているのに驚いた。移動の時間などを計算すると『甲賀忍法帖』は甲賀卍谷が信楽あたりで、伊賀鍔隠れ衆が島ヶ原あたりにいるように現在は思っている。
とはいえ、信楽ぐらい山地でなくとも、私がさきほど言った甲賀の土地もまだまだ山に囲まれて、伊賀の柘植から琵琶湖に向かって草津線が走る北西の向きで谷になっているとも言えなくもないのである。
今回の学会発表を聞いて、とても甲賀に行きたくなった。本来なら、甲賀で大会が開催され、翌日は巡検があったはずである。一年繰り延べになってしまったが、次の大会は甲賀に行ってぜひ確かめてみたいと思う。(吉丸記)