国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
忍者の歴史や文化を研究し、その成果を発信しています。

ブログ

 

(学生通信)中国十大刺客①(院生 鄒開宇)

2021年04月26日

 皆さん、こんにちは!中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。お久しぶりです。お元気ですか?
 中日両国は一衣帯水の隣国であり、両国は昔から官辺だけではなく、民間にも長期的、安定した文化交流活動があります。中国はかつて古代世界で最も繁栄し、最も強大な国であるため、中国から伝来された各種の文化要素は千年以上にわたって持続してきたこのような文化交流活動によって既に日本文化の各方面に浸透しました。忍者は日本特有の職業であるものの、中国の刺客と似ているところも多いと言っても良いです。これから、十編のブログを通じて、中国の歴史上最も有名な十大刺客を紹介したいと思います。
 まず今度紹介させて頂くのは春秋時代の呉国人の要離(ようり)という人物です。
 中国の歴史上の春秋時代(一説は紀元前770年~紀元前476年)は日本の戦国時代のように諸国が林立し、各大国の君主が諸国を制覇する夢を持っています。長年にわたる戦争を経て、一時的に諸国を制覇する五つの強国がありました。彼らは斉(せい)国(こく)、晋(しん)国(ごく)、楚(そ)国(ごく)、呉(ご)国(こく)、越(えっ)国(ごく)です。(他の学説もある)
 呉国の歴史の上で、呉王闔廬(こうりょ)の時代は呉国の最も繁栄している時期です。紀元前515年に、闔廬は専(せん)諸(しょ)を遣って前代の呉王の僚(りょ)を暗殺して見事に王位を奪いました。呉王僚の息子の慶忌(けいき)は父の仇を討つために、兵力を集めて、ひたすら自分の勢力を拡大して、父の王位を奪回するつもりです。当時、それは呉王闔廬の政権の安定にとっても庶民の平和の生活にとっても深刻な脅威でした。
 呉国朝廷で、大臣伍子胥(ごしそ)は極力に呉王闔廬へ要離を推薦しました。要離は呉王闔廬と密謀をして、順調に慶忌を暗殺するには予め彼の疑いを取り除くべきだと建言したが、呉王闔廬は成功できないと心配しています。そのため要離は大王は私の妻を殺して腕を一つ切ったら、必ず慶忌の疑いを取り除くことができるはずですと呉王闔廬に言います。でも呉王闔廬は敵を退治してくれるなら、お前の妻を殺すわけがないと同意しませんでした。要離は刺客である以上、家族を捧げる覚悟がなくしてはいけません。大王は私が帰ってきたら彼らを手厚く埋葬すればいいですと応えます。すると呉王闔廬は感動しました。
 そこで朝堂の上で、呉王闔廬は計画どおりに何気なく適当な言い訳をして、要離を捕らえって腕を切って、監獄に監禁してから、また要離の妻も監禁しました。そこで伍子胥(ごしそ)が謀略を謀って監獄から要離を逃がさせ、呉王闔廬は激怒のぶりをし、要離の妻を殺し、死体を焼却し、市に遺棄するよう命じました。
 要離は慶忌が衛(えい)国(こく)に避難していると知って、衛国に行って慶忌へ身を寄せます。慶忌は要離が呉国から自分へ身を寄せに来るのを知り、最初には彼を信用できなかったが、彼の右腕が本当になくなるのを見て、妻も呉王闔廬に殺されて市で死体を焼いて、遺棄されると聞いてから彼を心から信じました。慶忌は要離を腹心として毎日士卒を訓練させ、戦艦を製造させ、呉国を討つつもりです。
 その後、公子慶忌は兵を率いて船で呉国を攻撃しました。要離は慶忌に対して公子は自ら戦艦の船首に座るべきです。これは士気を鼓舞することができますし、船団を指揮して前進するのにも便利です。」と提案しました。慶忌はこの提案を闻いて、自ら船首に腰を下ろしました。要離は矛を持って慶忌の傍で立てています。大軍が堂々と前に進もうとしているが、突然水面から強い風が吹いてきて、慶忌が乗る船が風に揺れています。この千載一遇の好機を攫むために、揺れる勢いで矛を慶忌へ突いて、心の中に飛び込み、背中を貫いて出ます。
 重傷をした慶忌は、今になって要離が断腕する本当の目的を悟りました。彼はさすがに天下第一の勇士であり、激痛を我慢して必死に要離と戦って掴みました。慶忌の衛士は突進してきて要離を殺そうとするが、慶忌は手を振ってこの人は天下の珍しい勇士なので、一日に天下の勇士二人も殺されることができん!と言いました。でも慶忌はだんだん我慢できなくなり、衛士達に対してお前らは要離を殺してはいけん。やつを呉国に戻して、主人に対する忠誠を尽くさせろと言って、要離を甲板に捨て、自分で胴体を刺す矛を手で抜き取って血を流して死んだのです。慶忌の衛士たちは遺命に従って彼を困らせたわけではないです。しかし、要離は自分がこれから此の世に許されないと思い、水に身を投げて自殺しようとしたが、慶忌の衛士たちに拾われ、早く呉国に帰って賞をもらうよう勧められました。
 帰国後、呉王闔廬は自ら出迎えて、そして大金で要離を褒賞します。しかし要離は封賞を受けたくないです。私は慶忌を殺す理由は、功名やお金をもらうためではなく、呉の民が戦乱の苦しみを免れ、安寧に暮らすためなんですと言います。言い終わると、剣を抜いて自殺します。
 慶忌を暗殺するのは春秋時代の一大事件で、慶忌の亡くなるのは呉の発展の不安定な要素を取り除くだけではなくて、その上その時の民衆に困窮して流浪する生活を免れさせました。慶忌を暗殺するのは当時の政治の発展に順応し、時代の要求に合致し、春秋時代の発展を促進するために重要な役割を果たしました。要離は国の安定と民の安寧という重大な目標を叶えるために自らも捧げられる献身的な精神は敬服すべきだと思い、そういう精神も忍者の「正心」と似ていると言っても過言ではないでしょうか。(院生 鄒開宇記)