国際忍者研究センター

三重大学では、伊賀地域の発展のために、
忍者の歴史や文化を研究し、その成果を発信しています。

ブログ

 

(学生通信)中国十大刺客⑥(院生 鄒開宇)

2021年06月01日

 皆さん、こんにちは中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。前回は中国の春秋戦国時代の晋の刺客豫譲を紹介しました。今日は引き続き中国の十大刺客を紹介します。今日はこの十大の刺客のシリーズで歴史のステージを登場するのが一番遅い第六位を紹介させて頂きます。
 張汶(ちょうぶん)祥(しょう)は中国の清朝末期に活躍する人物であるが、様々な原因で彼に関わる歴史記録は僅か一部だけ残されているので、今彼の記述は殆ど野史、民間伝説あるいは文芸作品に基づいて編集されたものであると言われています。しかし今でも中国の民間で彼によって起された清朝末期の四大奇案の頭にランクされる「張汶(ちょうぶん)祥(しょう)刺(し)馬(ば)事件」を人々に話されています。例えば、数年前、中国の有名な監督の陳可辛氏が「投名状」というその事件をもとに創作された映画を撮りました。
 1850年末から1851年初頭にかけて、洪秀全(こうしゅうぜん)は広西の金田村(きんでんぞん)で楊(よう)秀(しゅう)清(せい)、蕭(しょう)朝(ちょう)貴(き)を率いて清国の朝廷に反抗する民間武装組織を結成し、その後「太平(たいへい)天国(てんごく)」という地方政権を建立しました。1853年3月、清国の朝廷との対立の最中で、太平天国は江(こう)寧(ねい)(現在の南京)を攻略し、都をここに定め、天(てん)京(きん)と改名しました。太平天国運動が始まっても清朝政府の正規軍は色々な原因で抵抗できなくなるので、地方的な武装組織を利用しかできませんでした。その後湘軍(しょうぐん)という地方の武装組織は太平天国に対抗するによってだんだん強くなりました。
 湘軍の創始者の曾(そう)国藩(こっはん)は優れた訓練方法と軍事理念によって、湘軍を太平天国に対抗する過程で、清政府の地方の武装組織の中で最も有力な一つに作り上げました。後に湘軍は太平天国を滅ぼしたことによって、清政府に王朝の面目を回復させ、当時の清政府の政治構造を変えました。その一方、清政府は地方の武装組織に頼って太平天国に対抗したが、これらの地方の武装組織が太平天国との戦いの中で、朝廷の派遣ではなく、各自の将軍の命令だけ受けることを気づきました。だから、太平天国が滅亡した後執政の西太后は曾国藩が江南で朝廷に対抗できる勢力を維持することを許さなくなります。この「隠れた危険」を解除するため、西太后は曽国藩を江寧から転勤させ、馬新貽(ばしんい)を派遣して両江(江寧と江蘇)総督を担当させました。
 しかし、湘軍にとって、彼らは最初から曾国藩に従って、江寧を攻略してから今までずっとここに駐屯していて、このところをとっくに自分の大本営と見なして、馬新貽に譲るわけがないです。その一方馬新貽にとって、これも容易い仕事のわけではないです。一人で他の人が攻略したところを接収するには誰かに不服があて陰謀を企むかもしれません。
 馬新貽は山東省荷澤人で、同治9年(1870年)の7月26日午前、両江総督を務めた馬新貽は校場で兵士を検閲した後、監督署に戻るつもりで、先に待ち伏せしていた張汶祥に飛刀で切られて、翌日傷が酷くなって死去しました。当時、馬新貽を暗殺した後、張汶祥はすぐに逃げるつもりはなく、その場で兵士が彼を捕まえに来るのを待っていました。張汶祥は逮捕されて馬新貽を暗殺する行動を認めました。逮捕された時に大声で「大丈夫だ!二十年後にはまた転生できるぞ。」と叫びました。
 馬新貽が暗殺された後、すぐに清政府全体を驚かせました。西太后は特にこの事件に関心を持っています。堂々たる両江総督は重兵の守備の下で刺殺されるのは清政府の面目に悪い影響をもたらすにせよ、事件そのものに対する疑惑にせよ、西太后をいっそう注目させました。
 後に江寧将軍の魁(き)玉(ぎょく)と梅(ばい)啓(けい)照(しょう)らの処理によって、最終的に結案され、張汶祥は自分の暗殺罪について自白して認めています。仲間の仇を討つために抱いた恨みで馬新貽を暗殺することを決めました。この事件で他の主使はいないと結論しました。しかし、西太后はこの審査の結果に満足していなくて、その後も曽国藩を派遣してこの事件を再審査しましたが、結局は前の結果とほぼ同じです。最終的に政府が公示した結果は、張汶祥は太平天国の残党で、こっそりと海賊を通じて、両江総督の馬新貽に対して深い恨みを持っていて、復讐するために暗殺しました。
 しかし、両江総督を刺殺した事件が「清朝末期の四大奇案の頭」になったのは明らかで原因があって、現在広く伝えられている二つの可能性は:
1.馬新貽が両江総督を勤める前にある匪賊討伐の中で、当時の地元の撚軍指導者張汶祥に捕まれました。張はあの時ずっと朝廷に服従する意欲があるので、馬新貽を非難したことがないです。お互いに熟知した後で、張汶祥は自分の兄弟の曹二虎と石錦標を馬に紹介して、四人は義兄弟になりました。しかしその後馬新貽は官運がよくて、兄弟三人との関係が薄くなり、そのばかりか曹二虎が長年外に出かけるチャンスで、曹二虎の妻と密通しました。事件が露見した後、曹二虎を陰謀を企んで殺害しました。これによって張汶祥はずっと恨みを持っています。
2.当時の馬新貽は両江総督に就任する前に何度も西太后に内緒に呼び出されました。その中で最も可能な原因は、西太后が馬新貽の両江総督として赴任するによって、馬新貽を太平天国を滅ぼした湘軍が太平天国を掃討した後に回収された洪秀全集の財産の行方をひそかに調べさせました。当時の西太后はこの財産が曾国藩とその兄弟たちによって横領されたと考えていましたが、なぜなら曾国藩が清政府に引き渡された財産の数は少ないです。当時の湘軍は馬新貽が赴任した原因がわかっているだけでなく、そもそもこの新人に対して不服なところがあることがあるので陰で張を派遣して馬を暗殺しました。その後審査の結果をよく処理して、清政府に調査結果を提出しました。
 もし本当の原因は湘軍の政治陰謀だといえば、刺客の張汶祥はただその中の駒-代罪の子羊です。他の刺客に比べて、彼は称賛に値する侠気精神を残していませんが、唯一彼を覚えられる原因はこの千古奇事件を成し遂げただけかな。(院生 鄒開宇記)