国際忍者研究センター

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(学生通信)中国十大軍師①(院生 鄒開宇)

2021年07月13日

 皆さん、こんにちは。中国から来た三重大学大学院人文社会科学研究科の鄒開宇です。前のシリーズでは、中国の古代の有名な刺客を十人紹介しました。今日は引き続き、次のシリーズを紹介させていただきます。これは「中国十大軍師」です。今日は第10位の範文程を紹介したいと思います。この人は明末期から清朝初期にかけて生活していた伝奇軍師です。彼の事績は『清史稿』に詳しい記録があります。
 万暦二十五年(1597年)、范(はん)文(ぶん)程(てい)は瀋陽のある代々官職を務める家庭に生まれました。万暦四十六年(1618年)、後金の八旗軍が撫順を攻め落とし、大量の人口と財物に略奪しました。範文程も捕虜になったが、殺されずに奴隷になりました。でも範文程と彼の兄は自らヌルハチに会って後金へ降伏に行ったという説もあります。
 天命七年(1622年)、ヌルハチは軍を率いて明朝の土地を攻撃し、範文程も大軍に従って出征しました。その後範文程はヌルハチに優遇され、軍事行動の指揮計画に参加しました。
 天聡三年(1629年)十月に、ヌルハチの息子のホンタイジは満州族、モンゴル族の大軍を率いて五万人余りが明朝の軍隊を攻撃しました。範文程は当時まだホンタイジの従者で、正式な官位はありませんでした。彼は従軍して出征する時も勇敢に突撃して殺して、また策略を利用することが上手で、弁舌が上手で、そこで功労を立てます。その後は戦功が著しく、範文程は遊撃世職を与えられました。
 天聡六年(1632年)ホンタイジは明の支配する宣府、大同を攻撃したいです。範文程と同僚は宣府を攻撃するより山海関を攻撃したほうがいいと建言しました。5月下旬、ホンタイジは帰化城に入り、文官たちに次の行動計画を協議するよう命じました。六月範文程は同僚たちと一緒に行動計画を提出しました。
 天聡七年(1633年)明の将軍が帰化に来ようとするので、範文程はホンタイジの命令を受けて、同僚と一緒に、聖旨を持って調査と勧降に行きます。同年五月、明の将軍は部下を率いて後金へ投降させました。範文程はホンタイジの命令に従って彼らの軍隊を東京(現在の遼寧省遼陽市)に配置して、彼らを連れて瀋陽へホンタイジに拝見に行きました。
     
 崇徳元年(1636年)範文程はますますホンタイジの寵信を受けて、朝廷で軍国の大事を相談するたびに、ホンタイジに意見を聞かれます。各国家・部落への詔書は,すべて彼がホンタイジを代行して書きます。範文程はホンタイジの待遇に感謝して、恩返しの為に多くの重要な政策を制定して、優れた官僚を薦めました。
崇徳八年(1643年)にホンタイジは崩御しました。諸王は大臣と協議した上で、ホンタイジの九人目の息 子の福(ふく)臨(りん)を清国の皇帝にさせて、叡親王ドルゴンに国を治める様々な政策を補助する摂政王にさせました。福臨が新世代の皇帝になるのは、八旗貴族の内部各派の激しい争いの一時的な妥協です。福臨が即位したあともこの争いは続いています。ある貴族が叡親王のドルゴンに遊説し、ドルゴンを福臨の代わりに皇帝にしようと画策しました。ドルゴンはこれらの人々の陰謀を公開して親王や貴族たちに教えました。反逆罪でその人たちを処刑して、また彼らの家産を全部没収しました。範文程は以前一人の処刑された貴族の部下であったが、この時彼の戸籍はこの事件によって皇帝直轄の下に編入されました。範文程は近いうちにまた新しい風波に会いました。摂政王ドルゴンの実弟である豫郡王ドーダーが範文程を圧制し、範文程の妻を奪い、長い間経てこの事情を解決されました。事実を確認した後、朝廷はドーダーを重罰することを決めました。範文程は一時安全になったが、これからもドーダーに復讐されることが心配されています。でも範文程は大局を重視し、清朝が中原に入るという重要な時期にも朝廷に献策し、軍功を立てました。
 順治元年(1644年)に李(り)自成(じせい)が北京に攻め入り、明が滅亡しました。範文程は摂政王ドルゴンに直ちに出兵して山海関に入り、天下を取るように提案しました。範文程の提案は、清が中原を奪取する基本方針と政策の制定や清軍の出発を促すことに対して、大きな役割を果たしました。範文程は摂政王に建言してから五日目に、摂政王ドルゴンは多くの貴族を連れて、満州族とモンゴル族と漢族の将兵十万余を率いて山海関へ出発しました。
 同年四月十四日、清軍が山海関の近くに到着した直後、山海関に駐屯していた呉三桂(ごさんき)は使者を派遣して助けを求めました。李自成はすでに北京を突破したと言いました。ドルゴンはもともと呉三桂の要求に応じるかどうか迷いました。なぜなら今度清軍の出征は、元々明朝から北京を奪って中原を取ろうとするが、でも今は李自成の農民軍が先に北京に占領したので、清軍は引き続き北京へ前進する必要がなくなりました。しかも清軍はかつて北京を攻撃しようとしても失敗したから、今農民軍は北京を占領したのは彼らの戦闘力は明軍より強いと思います。清軍が農民軍と戦ったら、誰が勝利するか分かりません。この躊躇の緊急時に、範文程は清軍が必ず李自成の農民軍を打ち負かすことができると説明しました。そして、もっと多くの人が清軍に参加するために、随意殺人を禁止することを改めて強調しました。これでドルゴンは北京へ進軍する自信と決心を固め、呉三桂を受け入れ、農民軍に立ち向かうことにした。
 その後、二つの軍隊は山海関で戦い、李自成は敗戦して逃げ、清軍は山海関に入り、李自成の軍隊を追撃していきます。この時、沿道の農民、庶民の多くは戦乱を恐れて逃げました。範文程はこの状況を見ると「ここに来たのは庶民の財物を略奪するためではなく、私たちは民衆のために報復して、李自成の軍隊を消滅させたいだけです。安心して帰ってください。昔の生活に戻れます。」という公告を範文程の自分の名義で書いて示します。この方法はかなりいい効果をもたらして、庶民はやはりすべて帰ってきました。清軍は迅速に山海関から北京へ前進して、やがて摂政王のドルゴンはついに北京の紫禁城内の武英殿に入って、ようやく夢を実現しました。
 順治元年(1644年)には社会が混乱し、誰でも自分の運命を心配しました。範文程はこの国を治理するために毎日働き、すべてのことを自ら処理します。彼は一日中皇居で仕事をしていてとても疲れています。
彼はまず都を安定させることに力を入れました。その後、彼はドルゴンに明朝の最後の皇帝の明思宗のために盛大な葬式を行うように提案して、明朝の投降した官吏に推戴された。
 しかし、摂政王ドルゴンの権力と勢力はますます強くなり、皇帝の福臨に対して脅威となりました。範文程はホンタイジの優遇を受けて、朝廷に忠誠を尽くすようと努めるから、ドルゴンに不満を感じています。最後に、範文程は病気を口実に自家に帰って、政治を離れます。でもこのやり方がドルゴンの不満を引き起こし、次第に権力中心から排除されました。
 順治七年(1650年)ドルゴンが病死し、やがて範文程が官職に復帰しました。順治十四年(1657年)、範文程の官位がまた一級に上がりました。順治皇帝は皇居で鑑賞のために絵師を派遣して範文程家に彼の像を描きました。
 康煕二年(1662年)、範文程は清太宗のホンタイジの陵墓を祭るよう命じられました。人が支えても起き上がれないほど地面に腹ばいになって悲しみ泣きます。
 康煕五年(1666年)八月二日、範文程は70歳で病気で亡くなりました。(院生 鄒開宇記)