国際忍者研究センター

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(学生通信)中国春秋・戦国時代の兵家たち―司馬穣苴(しばじょうしょ)①(院生 リトクヨウ)

2020年11月04日

 みんなさん、こんにちは、三重大学忍者研究院生一年のリトクヨウです。今回から、中国春秋・戦国時代で活躍した四人の兵家(司馬穣苴、孫子、孫臏、呉起)の生涯、逸話などを紹介したいと思います。この四人は歴史に深く影響を与え、日本もその影響を受け、独自の発展を遂げたのです。さて、始めましょう。
 田穣苴(でんじょうしょ)、通称司馬穣苴で、春秋末期斉国人、田完の後代である。彼は呂尚の次に著名な軍事家で、斉の軍を率いて、晋と燕の侵入を破り、大司馬の官位を与えた。子孫は司馬氏と呼ばれた。そのあとは、斉の景公が讒言を信じ、官位を奪われ、最後に鬱屈で病気になって死んでしまったという。
これは最初に景公が田穣苴を将軍に起用した話だが。
(穣苴は)「わたくしは低い家柄の出身でございますが、このたび殿はただ普通の兵士にすぎないこの私を抜擢(ばってき)して、一挙に大夫の上の位におつけくだいましたが、士卒は納得してくれないでしょうし、人民も信頼してくれないと思います。このように皆に軽蔑されていては、存分に力を振るえません。殿のお気に入りのご重臣を軍のお目付としてお出しいただければ、このような心配もなくなろうかと存じますが」
景公はこれを聞き届け、大夫の荘賈を目付けに命じた。穣苴は景公にいとまごいをして退出すると、
「明日の正午(しょうご)に軍門でお会いいたしましょう」と約束した。
 翌日、穣苴は早くから軍門のところへ行くと、日影を計る柱を立って、漏刻(ろうこく)(水時計)を用意して荘賈の到着を待ち受けた。ところが、荘賈は元々身分が高かったので、「どうせ味方の軍勢なのだし、自分は軍目付なのだから、別に急ぐこともあるまい」と高をくくっていたし、親戚や側近(かわきん)の者たちも彼を引き留めて送別の宴をはったりした。かくて、正午になっても、荘賈は軍門に到着しなかった。穣苴は柱を倒し、漏刻の水を捨てると、軍勢を検閲し、軍律を周知徹底させた。それがすっかりすんだあと、日の暮れ方になって荘賈が到着したので、
「なぜ約束の時刻におくれたのでござるか」というと、荘賈は、
「申し訳ない。大夫たちや親戚が送別の宴を張ってくれたので、ついつい遅れてしまった」といった。穣苴は、
「大将たるものは、出陣の命を受けたうえは家のことを忘れ、軍律を定めたうえはそれを親兄弟の情よりも優先させ、突撃の太鼓を打ち鳴らすときには一身の危険をもわすれるものです。今は敵国の軍勢が我が国に奥深く侵入し、国中上を下への大騒動となって、士卒は前線に野宿し、わが殿にはご心労のためおとおち眠られることもなく、お食事もろくろくのどを通られぬありさま、人民の運命がすべてあなたにかかっているというのに、送別の宴など論外というものです」と言って、軍法官を呼んだ。
続く (院生 リトクヨウ記)